2013年10月22日

鬼平犯科帳Ogre flat criminal record

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鬼平犯科帳 - Wikipedia
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『鬼平犯科帳』(おにへいはんかちょう)は、池波正太郎の時代小説。 → "Ogre flat criminal record" isaperiod novel of Shotaro Ikenami.



一年間、昔「鬼平」と呼ばれていた「狼平」で、奉り事に必要な「刀鍛治で鱧(ハモ)の包丁と鑑の制作の修業をする事になった。 → When"anogre was flat in old days ," for one year,was called; "awolf is flat",and presentで,and is necessary forathing; "will studyakitchen knife of pike conger and the production ofthemodel in sword Kaji".

建物は一年後、神社となる。 → Thebuilding becomestheShinto shrine one year later.

神社となる時とは、自分等が作った「包丁、三本」と「鑑」を奉納した時である。 → Shinto shrine and time to be are time whenIdedicated"akitchen knife,three" and"themodel" that oneself made.

その時から 競馬場とサラブレッド等の放牧場の工事や整備が始まる。 → Aracetrack and construction andthemaintenance ofthegrazing lands such as thoroughbreds begin at time.

放牧場はテロリストの犯罪の被害で放射能汚染が酷い山を削るしか無いらしい。 → Thegrazing land seems to but sharpenthemountain where radioactive contamination is terrible bythedamage ofthecrime oftheterrorist.



『鬼平犯科帳』(おにへいはんかちょう)は、池波正太郎の時代小説。 → "Ogre flat criminal record" isaperiod novel of Shotaro Ikenami.

略称は鬼平。 → As fortheabbreviated designation, anogre is flat.

「オール讀物(読み物)」に連載された。 → It was published serially in "all 讀物"(reading).

火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする捕物帳で、同じ作者の『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』とならび人気を保っている。 → When "instigator,Fujieda plum is it lower ," inasamurai detective story to assume Secretary arson-and-robbery investigators,Heizo Hasegawaachief character, "thefencer business" ofthesame author lines up and keeps popularity.

テレビドラマ・映画・舞台・漫画化されている。 → It is becomeaTV drama, amovie, thestage,comics.


概要[編集] → Summary[editing]

元々、池波は後述のように、第1作発表以前から長谷川平蔵を主人公とする時代小説を書こうと考えていたが、諸般の事情で実現していなかった。 → Originally Ikenami thought like later description to writeaperiod novel to assume Heizo Hasegawaachief character fromthefirst product announcement past,but did not realize it by circumstances ofthediversity.

「オール讀物」1967年12月号に、長谷川平蔵が登場する単発物として「浅草・御厩河岸」が発表された時、担当編集者の花田紀凱に、池波が連載したい旨を伝えたところ、評判が良かったために次号から同誌の巻末を飾る作品としてシリーズ化された(単行本掲載時にはこの作に限って順番の入れ替えがある)。 → After conveying that Ikenami wanted to publish it serially in Kazuyoshi Hanada ofthecharge editor when "Asakusa, theMimaya bank of a river" was announced astheone-shot which Heizo Hasegawa appeared in "all 讀物" December, 1967 issue,it was serialized asthework which decoratedtheend of a volume ofthemagazine bythenext issue because reputation was good(at the time ofthebook publication only as for this producttheturn with replacing it).

「鬼平犯科帳」の題名が付されるようになったのは翌1968年1月号掲載の「唖の十蔵」からである。 → It "is from ten dumb storehouses" oftheJanuary, 1968 issue publication, the following day thatthetitle of"theogre flat criminal record" came to be referred.

題名を考案したのは花田で、幾つかの案の中から、当時池波が属していた時代小説研究会「新鷹会」で評判になっていた森永種夫の『犯科帳』(岩波新書)から思いついてつけたものを池波が気に入り、この題名となった。 → It was Hanada to have devisedatitle,and Ikenami likedthething whichIhit from "criminal record"(Iwanami new book)of Taneo Morinaga that it was and touched forthereputation in period novel meeting for the study "new hawk society" which Ikenami belonged to at the time of from some plans,and it was with this title.

当時同誌の編集長・杉村友一は、師の折口信夫の教えにより、折口が愛読していた野村胡堂の『銭形平次』のように、雑誌の巻末にあって「オール讀物(読み物)」の顔となり、読み進んでも読者が失望しないような長期連載の作品が必要だと考えていた。 → As for chief editor,Yuichi Sugimura ofthemagazine,it was withaface of "all 讀物"(reading)like "shape of a coin flat next" of Kodo Nomura whom Origuchi loved reading by teaching of Shinobu Orikuchi oftheteacher intheend of a volume ofthemagazine,andawork oftheserialization thought in those days forthelong term whenareader was not disappointed even ifIwent on reading it that necessary.

「浅草・御厩河岸」の好評により、杉村は『鬼平犯科帳』の長期連載を池波に要望した[2]。 → Byafavorable reception of "Asakusa, theMimaya bank of a river",Sugimura demandedthelong-term serialization of"theogre flat criminal record" of Ikenami[2].

こうして、長期にわたる時代小説の連載が行われたのである。 → Theserialization ofthelong-term period novel was carried out in this way.

なお、テレビ版製作にあたっては原作をドラマ化するのみに限り、小説を使い尽くしたらそこで打切るようにというのが作者の意向であった。 → In addition, Idramatizedtheoriginal in production for TV,and it wastheintention oftheauthor that broke off there ifIused upanovel.

1968年には文藝春秋から最初の単行本が刊行された。 → Thefirst book was published in 1968 by Bungeishunju Ltd.

全部で135作で、ほか番外編が1作ある。 → With 135 products,others extra is it in1product in total.

このうち5作が長編、残りの130作が短編作品である。 → Of these, along piece,130 remaining products are short story works5products.

未完に終ったのは最後の『誘拐』1作のみで、これは作者急逝のためである。 → It is only1last "kidnapping" product to have finished being unfinished,and this is for author sudden death.

現在は文春文庫に収められ、全24巻(新装版)で刊行されている → It is put inthelibrary in sentence spring and is published in all 24 volumes(redecorated version)now.



発表まで[編集]

「鬼平犯科帳」がオール読物に連載される前から、池波は長谷川平蔵という人物に興味を持ち、史料を調べ、何度か小説にしている。

池波自身の回想や西尾忠久らの調査を元に時系列にそって記すと、1935年頃、当時勤務していた株屋の仕事で知り合った元盗賊の頭から色々な江戸時代の盗賊について話を聞く。

1948年、長谷川伸に弟子入りし、江戸時代の歴史や風俗について学ぶ。

1953年頃、長谷川の蔵書だった『寛政重修諸家譜』を読み、初めて長谷川平蔵という人物を知るが、この頃の自己の文章能力では書けないと思い、メモを作成して構想をねり続ける[4]。

1955年、寛政重修諸家譜』を古書店で入手する。

当時の金で20万円(大卒初任給が4万円程度だったので、現在の貨幣価値に直すと100万円程度か)という大金で、以前から欲しいと思っていた池波も覚悟を決めての購入であったようである。

1960年、直木賞受賞。この頃、長谷川平蔵が登場する小説「看板」[5]・『江戸怪盗記』や、徳川家康関係の忍者小説を多数執筆、各種雑誌に発表する。

『孫子』の「用間篇」から、長谷川平蔵が元盗賊の密偵を使う捕物帳の構想を思いついたと推測される。

また、徳川家康の家臣酒井忠次(酒井小平次)から脇役の「沢田小平次」を思いつく[6]。

1967年、『鬼平犯科帳』連載開始。

1969年10月7日、『鬼平犯科帳』テレビドラマ化。

なお、後にドラマ化された際には1960年から書かれた、「鬼平外伝」といわれる一連の小説群[7]も原作として同様に扱われた。

これはドラマ化された時、『鬼平犯科帳』にまだドラマシリーズの原作として十分な量がなく、オリジナルの脚本を作る必要があったため、プロデューサーの市川久夫と池波の協議で決まったものである。

ドラマ化された時には、池波が脚本に全て目を通し加筆したため、ドラマ脚本から原作小説に影響されることもあった[8]。


時代背景[編集]

長谷川平蔵が火付盗賊改方長官であったのは1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで。

1783年(天明3年)の浅間山大噴火や折からの大飢饉による農作物の不作により、インフレが起こる。

各地で打ち壊しが頻発し、世情は酷く不穏であった。

田沼意次の失脚(1786年(天明6年))を受けて1787年(天明7年)に松平定信が老中に就任。寛政の改革が始まったが、このような経済不安から犯罪も増加し、凶悪化していった。

長谷川平蔵が火付盗賊改の長官となったのは同年10月である。


各話題名[編集]

詳細は「鬼平犯科帳全作品一覧」を参照


登場人物[編集]

詳細は「鬼平犯科帳の登場人物」を参照


用語[編集]

作中では主に盗賊たちが「盗み」のことを「つとめ」「おつとめ」「はたらき」などの言葉で表現する。

これらの用語はほとんどが原作者の造語である。

急ぎ働き

入念な準備をする伝統的な「盗み」ではなく、押し入って奪い、役人の管轄外などの他所へ素早く逃げるやり方。手口が荒っぽく、証拠隠滅のために殺生を伴うことも多い。現代の強盗・強盗致死に相当。

畜生働き

殺生や強姦を伴う盗みのこと。強盗殺人・強盗強姦に相当。

独り働き

盗賊団に属さず、一人で盗み働きを行う者のこと。またはその盗み方。単独犯。

流れづとめ

依頼や紹介によって色々な盗賊団の下を移り渡る者のこと。またはその盗み方。流しの犯行。

盗みの三ヶ条

伝統的な「本筋・本格の盗人」が守るべきこととされる掟で「盗まれて難儀をする者へは手を出さぬこと、人を殺めぬこと、女を手込めにせぬこと」の三か条からなる。劇中ではこれを縮めた形として「殺さず、犯さず、貧しきから盗らず」といったものもある。作品中ではこの掟を頑なに守る盗人や盗賊に対して、平蔵は比較的寛容な態度を見せる。ただし、妙義の團右衛門のように、市井の人間に危害は加えないが「お上の狗」と見抜いた相手は容赦なく殺害するような例外もあり、こちらについては平蔵も怒りを見せた。

狗(いぬ)

盗人稼業から足を洗った密偵を盗賊たちが蔑んで言う言葉。

口合人

盗賊と盗賊を結びつけ、人員を融通する斡旋人。信頼第一の商売のため、五郎蔵や宗平に言わせると江戸には10人もいないとのこと。多くは嘗役を兼ねていたという。

引き込み

盗みに入る家の内部関係者となって、いざ決行となれば内から鍵を外し、仲間を引き入れる。奉公人や出入りの商人として、数年かけて押し込み先での信頼を得る。伝統的な盗みには欠かせない役目。内通者。

たらしこみ

盗人が目をつけた家の男に対して色目を用いて近づき、金品の場所や家の間取りを調べる役目を負った女のこと。

逆の場合(男が女に近づく)場合は「牝たらし」という。

嘗役(なめやく)

盗みに入る商家などの内情を探る役目の者。財産や間取り、奉公人の数など事細かく調べ上げる。外部から調べを行なうので引き込みとは異なる。

盗人宿(ぬすっとやど)

盗賊団が隠れ家とする建物や商家のこと。商家に偽装している場合、真面目な商売をしている裏で盗人の寝泊りや盗品の保管を行っていることが多い。

盗み細工

盗賊が大工となり、新築・改築中の建物に侵入するための細工を施すこと。壁の一部が一見それとわからない扉になっていたり、床下に抜け穴を施す等の方法がある。


テレビ時代劇[編集]

詳細は「鬼平犯科帳 (テレビドラマ)」を参照


映画[編集]

映画「鬼平犯科帳」

1995年11月18日公開。キャストは二代目中村吉右衛門以下、テレビシリーズの面々。

対するゲストは大阪の元締白子の菊右衛門に藤田まこと、江戸の女盗賊の頭、荒神のお豊に岩下志麻。

盗賊2代目狐火勇五郎には、ロックバンドツイストのボーカル世良公則。平蔵の息子辰蔵には、NHK連続ドラマ『春よ、来い』に出演した東根作寿英。

詳細は「鬼平犯科帳 劇場版」を参照


舞台[編集]

鬼平犯科帳
1970年9月、帝国劇場

脚本・演出:榎本滋民

長谷川平蔵:八代目松本幸四郎、おふさ:山田五十鈴、お富:浜木綿子、岸井左馬之助:二代目中村又五郎、木村忠吾:二代目中村吉右衛門

『鬼平』の初舞台作品。初代中村吉右衛門17回忌追善公演の一つとして上演された。

「本所・桜屋敷」「女掏摸お富」「お雪の乳房」3話を一つにしたもの。

狐火
1971年4月、明治座

池波正太郎作・演出

長谷川平蔵:八代目松本幸四郎 → 二代目中村吉右衛門(再演以降)

演出を若干変更して、1990年2月歌舞伎座で再演、2009年5月新橋演舞場で再々演。

鬼平犯科帳 狐火
1978年11月、明治座

池波正太郎作・演出

長谷川平蔵:高橋英樹、おまさ:宮園純子

本所・桜屋敷
1991年2月、新橋演舞場

長谷川平蔵:二代目中村吉右衛門、相模の彦十:三代目江戸家猫八

五年目の客
1992年2月、新橋演舞場

お吉:波乃久里子、関宿の利八:国広富之

「五年目の客」「山吹のお勝」2話を一つにしたもの。原作では逃げ延びるお勝と関宿の利八が、本作では殺される。

むかしの女
1993年2月、新橋演舞場

蓑火の喜之助:二代目中村又五郎、岸井左馬之助:五代目中村富十郎

平蔵が今は落ちぶれた昔の女おろくと再会する代表作「むかしの女」に「老盗の夢」を絡ませている。1994年6月に京都南座で再演。

炎の色
1994年2月、新橋演舞場

おまさ:波乃久里子、お園:藤山直美

長編「炎の色」と「隠し子」2話を一つにしたもの。

血闘
1995年3月、新橋演舞場

おまさ:水谷良重、五郎蔵:四代目市川左團次

「鯉肝の里」「むかしの男」「血闘」3話を一つにしたもの。1995年6月に京都南座で再演。

大川の隠居
2007年5月、新橋演舞場

長谷川平蔵:二代目中村吉右衛門、船頭友五郎:五代目中村歌六

2008年4月に名古屋御園座で再演。

2010年6月に博多博多座で再々演。


漫画[編集]

さいとう・たかを作画・久保田千太郎の脚色による漫画(劇画)[9]。

『コミック乱』(リイド社)より1993年から連載されており、リイド社、文藝春秋より単行本が発行されている。

基本的に原作に忠実であるが、中には「盗賊婚礼」のように、原作と大きく異なる作品もある(2代目傘山の弥兵衛が本格の盗賊ではない、鳴海の繁蔵と瓢箪屋勘助が同一人物である、など)。

次第に『鬼平』以外の池波作品からの借用など、オリジナルストーリーも加わっている。

話数カウントは「仕置きの○」。


朗読[編集]

時代劇専門チャンネルでは『朗読 鬼平犯科帳』として、イラストとともに原作を朗読する番組を放送している。主な語り手はアナウンサーの野間脩平。

一回の放送は10分間程度であり、一話を数回に分けて放送する。

放送時間は毎週日曜9:48〜10:00、再放送は同日17:48〜18:00、平日16:50〜17:00だが、平日は直前の番組の影響で放送されないこともある。

ゲストとして黒木瞳(スペシャル「5年目の客」)や池上季実子(28話「敵」)などが登場する話もある。

また、商品としては橋爪功・二木てるみ版、古今亭志ん朝版、神谷尚武版、安原義人版が発売されている。


関連書籍[編集]

「池波正太郎 鬼平料理帳」(佐藤隆介編、文藝春秋、のち文春文庫)ISBN 978-4167142346

「鬼平犯科帳 お愉しみ読本」(岩國哲人、江國滋、尾崎秀樹、佐藤隆介、縄田一男、西尾忠久ほか、文春文庫)ISBN 978-4167142520

「鬼平犯科帳の世界」(池波正太郎編、文春文庫)ISBN 978-4167142438

『実録『鬼平犯科帳』のすべて』新人物往来社 1994

『鬼平犯科帳 盗賊指南』(岩國哲人監修SUPER STRINGSサーフライダー21著、徳間書店、1996年)ISBN 978-4198605292

『「鬼平」に学ぶマネジメントのための三十章』(岩國哲人著、かんき出版、1997年)ISBN 978-4761256531

『鬼平犯科帳の真髄』(里中哲彦、現代書館、1998年)ISBN 978-4768467404/(文春文庫、2002年)ISBN 978-4167656256

『鬼平を歩く』(西尾忠久監修、毎日ムックアミューズ編、光文社知恵の森文庫、2002年)

『鬼平犯科帳人情咄 私と「長谷川平蔵」の30年』(高瀬昌弘、文春文庫、2003年11月)ISBN 978-4167656836

『鬼平犯科帳の人生論』(里中哲彦、文春文庫、2004年)ISBN 978-4167679170

『朗読CD 鬼平犯科帳』(朗読:古今亭志ん朝、日本音声保存2005年2月)ISBN 978-4901708685


脚注[編集]

^ 花田紀凱『池波正太郎作品集 月報』(朝日新聞社、1976年)による。西尾忠久『鬼平犯科帳who's who』[1]では、『長谷川伸全集 第十巻』(朝日新聞社、1971年)所収の『私眼抄 法刑・犯科篇』に基づくとしているが、一般的には花田の話が定説となっている

^ 杉村友一『柱になる小説』 新人物往来社「実録鬼平犯科帳の全て」所収

^ 市川久夫の回想による。新人物往来社「実録『鬼平犯科帳』のすべて」所収

^ 文庫本3巻の池波の回想によるが、西尾忠久(2002年)では、数十巻に及ぶ大部の著作である寛政譜を池波が突然読み始めたとは考えにくく、『江戸会誌』や三田村鳶魚『捕物の話』、松平太郎『江戸時代制度の研究』等の、史料・研究書類を読んで長谷川平蔵を知ったあとで、寛政譜を読んだのであろうと推測している。

^ 後に「白浪看板」と改題する。後に制作された時代劇『鬼平犯科帳』で脚色された。また、『鬼平外伝・夜兎の角右衛門』の原作である。

^ 孫子と酒井忠次の件は西尾の推測。池波自身は述べていない。

^ 単行本としては『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)、『江戸の暗黒街』(新潮文庫)、『殺しの掟』(講談社文庫)、『剣客群像』(文春文庫)などに収められている。

^ 密偵の一人、伊三次はドラマ脚本で初登場しており、その後小説の重要な脇役となった。

^ 2008年の久保田の死去により、「コミック乱」2008年5月号掲載分が久保田による最後の脚色作品となった。以後は大原久澄が脚色を担当している。


外部リンク[編集]

『鬼平犯科帳』Who's Who

鬼平遊歩道- 個人のページ。


コミック乱連載中の漫画作品(2013年9月27日現在)


伊平さんの女房

浮世艶草子

鬼平犯科帳

けせらせら

剣客商売

剣術抄

侍えれじぃ

算法少女

戦国の長縞GB軍

月之介狂詩曲

二代目雲盗り暫平

はなまめ。

風雲児たち 幕末編

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邪馬台国の国王は卑弥呼非ず。日實妃亂龍劉崑崙嶐temple.

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「こじき」に関連した英語例文の一覧
http://p219.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/1022NsDYhV6sowFq/0?_jig_=http%3A%2F%2Fejje.weblio.jp%2Fsentence%2Fcontent%2F%25E3%2581%2593%25E3%2581%2598%25E3%2581%258D&_jig_keyword_=%8C%EE%90H%20%89p%8C%EA%20%97%E1%95%B6%20weblio&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fonesearch%3Ffr%3Dm_top_y%26p%3D%258C%25EE%2590H%2B%2589p%258C%25EA%2B%2597%25E1%2595%25B6%2Bweblio&_jig_source_=srch&guid=on



邪馬台国の国王は卑弥呼に非ず。 → Theking of queendom of Queen Himiko of the third century is non for Himiko.


代々、女性で「日實妃亂龍劉崑崙嶐temple.」と記されているらしい。 → It seems to be written down in women from generation to generation with "日實妃-HigMikog. 亂龍劉崑崙嶐-RyuLyuKonLonRyug. temple.".

「日皇子」とは側近の男。 → It istheman oftheaide with"日皇子-Hig.Koujig.…aday prince".

「卑弥呼」は邪馬台国と対馬(對馬)を間違えたНАЗУТОКФ(Hattaitog.)のMaik.tamg.Tomg.tat. → Maik.tamg.Tomg.tat. of НАЗУТОКФ(Hattaitog.) where "Himiko" mistook Tsushima(Tsushima)for queendom of Queen Himiko of the third century

海外での自分の呼び名を付けたのは誰ですか? → Who is it to have attached one's name in foreign countries?

国籍は何処の国ですか? → What state isthenationality?

日本国内での親戚以外に頼る施設は何と言う名前ですか? → What names arethefacilities to rely on other thanarelative in Japan?

信頼出来る「正しい情報源」は日本にありますか? → Isthereliable "right source of information" in Japan?



古事記 → Description of folk history

Records of Ancient Matters

The Kojiki


古事記『古事記』偽書説 The-ory that Records of Ancient Mattersisgisho. → Description of folk history "description of folk history" forgery theory Theory that Records of Ancient Matters is gisho.

『但馬故事記』たじまこじき → "Description of Tajima historical fact" Tajima beggar "TajimaKojiki"


「あの子は、乞食だ。 → "That child isabeggar".

"The boy isabeggar,"


Ouida『フランダースの犬』 → Ouida "dog of Flanders"
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RyuLyuKonrong.Ru.Shu.Rily.....Sh.Tai.k.

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「五爪の龍」に関連した英語例文の一覧
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さっき、一応「大和市桜ヶ丘中央病院」に電話しました。 → Call for the time being a while ago in "Sakuragaoka, Yamato-shi center Hospital".

二回目の診察が9/25 → The second medical examination is 9/25

白血球が17700だった山田えり → Eri Yamada that a white blood cell was 17700

発作が酷くて出られない、今日も発作でいけなかったと伝えたのですが 「一ヶ月以上なので診察を。 」と言われました。 → Anattack was severe,and,on today when was not appeared,told when was wrong byanattack,;but because"is more than it for one month medical examination." was said.

救急車で運ばれた病院なのに、何も確認しない、暦も分からない「モスキーノ」です。 → Though it isahospital carried inanambulance,"it is Moschino" where does not know any calendar not to confirm.


大和市と藤沢市長後地区のクーデターX → Coup d'etatXof Yamato-shi andtheChogo, Fujisawa-shi district

「邪馬台国クーデターX」だそうです。 → "It seems to be queendom of Queen Himiko of the third century coup d'etat X".


誰を相手に大和市と藤沢市でクーデターなのか分からない。 → Don't know whether it isacoup d'etat against whom in Yamato-shi and Fujisawa-shi.

自民党の新旧全国会議員他、全世界の国賓や要人や有名人の中には世界中の有名なお医者様も沢山要らして、世界生中継の仲間のテロリストが立て籠りを続けている大和市がケーブル等の工事をした人質監禁現場と日本国内や世界中のテロリストの犯罪が随時、写し出されて捕虜の方々も観て聞いているのにね。 → Famous doctors of the world lets you need it a lot in member of the old and the new whole country meeting et al. oftheLiberal Democratic Party, astate guest andavery important person andthecelebrity ofthewhole world,andthehostage imprisonment spot andthecrime of Japan and terrorists of the world that constructed cables are projected at any time,and Yamato-shi continuing barricading watchesthecaptive various places,andtheterrorist ofthefriend oftheworld live broadcast hears it.

キダさんは私の幼稚園から小学校、中学校も一緒だった「智ちゃん」のイトコかもしれない。 → Kida may be Itoko of "tomo" thatanelementary school, thejunior high school were same as from my kindergarten.

大和市の犯罪が世界中に知られた理由は世界中の警察や軍のtopが監禁されているから、部下の皆さんがあっと言う間に調べちゃったよ。 → Because top ofthepolice and militaries of the world was imprisoned as forthereason whyacrime of Yamato-shi was known to all overtheworld,subordinates has checked it in no time.

ウニクスとハッタイトの神様が江の島の黒龍のお墓を見詰めた形で眠る、近くの長後の大宰府の銀杏や色々な木を日本中に移植してしまった組織の犯罪です。 → It isthecrime oftheorganization which has transplantedaginkgo oftheDazaifu of Chogo sleeping intheform that God of ЦИУХЗФ and НАТЗУТОКФ stared atthegrave oftheblack dragon of Enoshima nearby andavarious tree in Japan.

木が沢山だったから、あの場所なのに、愚かです。 → Though it is that place because there were many trees,it is stupid.

栄えないから出ようね。 → Because we do not prosper,let's appear.

横濱えり → Ellis Claudia Eve.Toyamag.

龍劉崑崙嶐嵩嶺驪獵吏畏怖主宰載熈 → RyuLyuKonrong.Ru.Shu.Rily.x.Ifu.Sh.Taikaiqu

伊達藺誣 → Eleana.eve.earom.ea.Iq.LOMBVDTKVBYZTA-R. Ivu(Eve) Woltg.Dateg.
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2. 『動物園にできること「種の箱舟」のゆくえ』川端裕人

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152 年間飼育コスト
ぺリアトラ…58万ドル。最も高い。
インドサイ…44万ドル。
シマクサマウス…13万ドル。
→これらの費用を生態系保護に使ったらどうか?
→しかし、そもそもこれは「動物園があること」によって発生した金額であり、動物園がなければこの金額も発生しない。

156 野生復帰
166 『絶滅の危機にある種の保護法』が根拠。
全ての種は救えない。関心の高いものだけを選別。
157 アメリカバイソン…野生復帰の確立。
159 アラビアオリックス…アラビア半島で絶滅。アメリカで飼育されていたものが、野生復帰した。砂漠への適応能力が優れていた。
160 ゴールデンライオンタマリン…野生への適応能力が低い。91頭中、27頭しか残らなかった。しかし、第二世代は森での生存技術を自ら学習し、生存率が向上。
162 ワイオミングヒキガエル…絶滅に瀕した個体の緊急避難所。
164 カルフォルニアコンドル…電線との衝突をさけるようなトレーニングを施したうえでの野生復帰。だが、まだ人間による餌の供給を必要とする。
167 クロアシイタチ…創設個体18から毎年300頭ずつ生まれるレベルに。今後は近親交配による遺伝劣化が課題。
176 それぞれ膨大なコストがかかる。GLTは最初の7年で100万ドル。アラビアオリックスは毎年100万ドル。
176 成功率の低さ。20世紀の野生復帰計画126種、145計画中、成功は15種、16計画のみ。
→野生復帰ではなく生息地保護をすべき。
生態系の中で空になったニッチを埋めるために、動物を移動させる。

181 希少種の繁殖。ゴリラのトレーニングによる精液の採取は電気ショックより状態の良いもの(=冷凍保存が可能)が採取できる。人工授精が可能に。
188 人工授精のメリットは、オスが交尾に関心を示さなかったり、行動異常による困難、移動の困難、群れの社会構造への考慮など様々心配が解消されること。
192「保護活動におけるクローニングの可能性」遺伝子多様性の維持、スペースの問題の解消=「冷凍動物園」
196 人口授精の方法の確立には気の遠くなるようなお金と人的資源が必要であり、種、個体によって固有の事情を抱えている。

人工的な繁殖技術は種の保存のための決定的な切り札にはならず、生息地の保護が優先されるべきである。
199生命観・生命倫理観をめぐる問題としても再考されるべき。

206生態系保護
保護区はその生態系が意味のあるまとまりとして成立するために関わりのある複数の自治体が協力して設定される必要がある
212動物園が自然保護活動や研究を行う
野生生物保護協会=Wildlif Conservation Society
98年にはWCS(四つの動物園と一つの水族館)の運営費の四分の一=1500万ドルが生息地保護のために充てられた。
214 経済的基盤があるがゆえに効率的に立ちまわれる
216 自然保護のために研究し、活動する人を長く応援することができる
217 大手環境NGOでも可能では?動物園でなくてもできるのでは?動物園としう経済基盤でなくても可能では?

217 動物園だからできること
・広報、教育、政治への働きかけ。棲息地への教育活動。
・動物園が持っている個々の動物への細かな知識を利用し、棲息地の科学調査を行うことで保護に直接役立つさまざまな知見を得ることができる。
・動物園で開発される新しい技術。人工授精、胚移植などの人工繁殖の技術、個々の動物に効き目のある薬、麻酔の手法、野生動物のモニター方法。
・生息地保護に関わる現地の人々への訓練や技術伝達。
・保護プロジェクトのための資金集め。

220 世界の動物園の繁殖実績
哺乳類の19%、鳥類の9%の種の繁殖に成功
IUCNのレッドデータリストに記載される絶滅危惧種では、動物園飼育下の哺乳類の58.7%、鳥類の87.8%、爬虫類88.8%が繁殖を成功している。
IUCN(国際自然保護連合)のレッドデータリストに記載される絶滅危惧種=2715種
動物園飼育=875種

ある一定の種、棲息地個体群の保存は可能

守るべきは生態系であり、個々の種の保護に努力を集中する動物園のやり方は有効な生態系保護ではない

生態系の鍵となるような種、あるいは自然保護の象徴となるような種の保護をすることで、ある個体群の保護が自然環境の保護、生態系全体の保護につながる(コンウェイ園長)
223 棲息地が断片化し、動物園化している

放っておけば、遺伝的多様性が維持されず、遺伝劣化が起きて絶滅してしまう。動物園と同様に管理する必要がある。
例:インドネシアのスマトラトラ

229 動物園の行う教育活動
@動物園内で飼育動物を教材とした教育活動
A野生の棲息地へ行き、地元の人々に行うもの
発展途上国では、自分たちの生活と環境保護を天秤にかけなければならない
234 動物園内の展示をめぐり、さまざまな棲息地とそこに存在する生態系の縮図を体験する
238 教師向けの環境教育カリキュラムのワークショップ
241 中学生が動物園で学び、小学生に授業・講義する

242 アメリカ・イギリスなど合計4つの動物園で来園者、千組近い親子の会話を録音、分析した結果
動物の棲息地への会話は全体の4%、絶滅危惧種についての会話2%。

ただ動物園が存在するだけでは、環境教育の意味を成しえない。

環境教育プログラムはただの対処療法ではないか?
動物を展示することそのものは、効果がないのではないか?

245 エコ・フォビア
子どもの頃から怖い話=環境破壊を聞かされ続けると、それそのものを嫌悪し遠ざけようとするようになる。胸が張り裂けそうになるくらいかなしくなり、無力感をもつようになる。返って、環境問題を無視しようとする。

むしろ子どもたちに必要なのは、自然との情動的な結び付き。ナチュラリストや活動家の多くが幼少期に安心して自然の中で遊べる体験をもっていた。

250 大動物園を一般化してよいか?
ブロンクス動物園…1997年の年間予算3700万ドル。入場者数200万人。
サンディエゴ動物園…4700万ドル。350万人。
ブルックフィールド動物園…4000万ドル。200万人。
254 小さな動物園
リクリエーションと環境教育の場。市民の「生活の質」を支えるもの。地元の人のための動物園。
ビアズリー動物園(コネチカット州)が存続の是非の際に検討したことは
@動物の展示が環境教育であり得ること
A動物を入手しやすいこと
B動物に適切なケアができること
258 地元密着型・教育の場・地元の自然保護
「大聖堂に対する地元の小さな教会のようなもの」

266 アニマルライツ
動物も人間と同様「基本的動物権」を持っている。
反実験動物、反毛皮産業キャンペーンなどが主流で、反動物園は少ない。
268 動物園が私たちに与えるメッセージ「動物とは利用すべきものであり、檻の中に閉じ込めて娯楽のために使うのも問題ない」。環境教育ではなく、動物を利用価値で考える価値観を次世代に伝える装置にすぎない。
269 動物園で飼われる動物の多くは絶滅の危機に瀕していない。また繁殖させても野生の個体が増えるわけではない。
動物精神病にかかる動物が多い。
270 批判@漢方として利用されることについて、絶滅に瀕しているトラの保護は訴えてもシカの保護は訴えないこと
272 批判Aヒグマの体内に散弾が見つかったことについてどうして狩猟禁止を訴えないのか。
274 展示施設は閉鎖すべき。野生復帰が可能な個体は実行し、そうでないものは繁殖を抑えて死ぬまで出来得る限りのケアをしながら飼育する。
274 1993年カナダ・バンクーバーのスタンレー市営動物園……住民投票により閉鎖。54%の賛成。

274 エコロジストの二つのタイプ
@熱帯雨林はまだ未発見の種の宝庫であり、新薬の開発など様々な可能性がある。→人間中心
A熱帯雨林はそもそもそれ自体で存続する権利を持っており、人間の利用価値で語るものではない→生命中心
283 @建設材を環境へのダメージの小さいものにするAエキゾチックな動物を導入にしても、地域環境保護への興味を掻き立てる内容にする。A人々がライフススタイルを変えるよう、メッセージを発信する
284 動物園は問題提起はしても原因を特定したり解決方法は示したりしない
285 スポンサーの問題。環境保護に熱心な企業の寄付によって成り立つ動物園の事情。来園者への娯楽を提供することへの配慮。

290 日本の動物園は、専門性の高い人材がいない。環境保護への議論もされていない。多くがメナジェリーから抜け出せていない。
292 イルカの飼育下繁殖。日本は全体の一割。アメリカは四割。ゴリラは、88年以降一度も繁殖実績がない。野生復帰の成功例もない。
298 日本での国際会議(CBSG:保全繁殖専門家グループ)は、外国の成果を傾聴するだけのものであり、議論の場ではない。
309 日本のイマージョンは似て非なる物。浸しこむと呼ぶにはお粗末。むき出しの人工物。(ズーラシア)
312 日本はイマージョンよりも「行動展示」志向。見た目よりも実質動物たちが生き生きする方法を。コストを抑え、その分を動物の福祉など別の用途に。
319 展示ハードウェア・飼育員の「これを見せたい」という現場感覚・日々の飼育が一本の軸になる
320 旭山動物園→上野動物園への波及効果。
326 しかし行動展示も、来園者には「ペット体験」に引き寄せられてしまう危険性。

【読後の感想】
これだけの取材をし、分かりやすく整理してまとめた川端氏に心から敬意を表する。動物園への見方が明らかに変わった。私は今まで、動物園を娯楽施設としか認識していおらず、動物の権利に対する議論についても知ってはいたがどこか冷めた態度を取っており、真面目に考えようとしたことがなかった。しかし、本書により動物園の担う機能が1980年あたりから劇的な変化の機運が高まり、意義が変化していっていることを知った。やはり、人間中心の博物学的な研究あるいは娯楽施設として誕生した動物園は、そのままの形で存続できるような時代ではなくなってきているのが現状だ。ならば解体するべきか。あるいは、改善して、新たな機能を見出し、意義ある施設として生まれ変わるべきか。現状では後者の選択が主流であり、私の思いも同じだ。しかし、それが建前で終わってしまわぬようにすることが本当にできるかどうか。それが重要だと考える。日本人は、議論が下手。未だにそれは変わっていない。しかし、議論によってある行動に対する意志決定の妥当性が明確になり、その行動をすることでどのような社会でありたいのかが見えるようになる。そのような、本質的な行動
決定のための哲学を共有した上で動物園の改革が行われることを切に望む。この本の内容を踏まえて、新たな目でまた動物園に行こうと思う。
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1. 『動物園にできること「種の箱舟」のゆくえ』川端裕人

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読書ノート: 『動物園にできること 「種の箱舟」のゆくえ』川端裕
http://p213.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/1021tVp8BWdV8B6G/0?_jig_=http%3A%2F%2Fireashukinz.blogspot.com%2F2011%2F12%2Fblog-post_12.html&_jig_keyword_=%90l%8DH%8E%F3%90%B8%20%97%E2%93%80%20%88%E2%93%60%8Eq%20%90%B6%82%DC%82%EA%95%CF%82%ED%82%E8&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fonesearch%3Ffr%3Dm_top_y%26p%3D%2590l%258DH%258E%25F3%2590%25B8%2B%2597%25E2%2593%2580%2B%2588%25E2%2593%2560%258Eq%2B%2590%25B6%2582%25DC%2582%25EA%2595%25CF%2582%25ED%2582%25E8&_jig_source_=srch&guid=on


『動物園にできること 「種の箱舟」のゆくえ』川端裕人(文集文庫)


著者は97-98年にコロンビア大学研究生として在籍、動物園やフンボルトペンギンの生態地へ取材する。

「動物園の是非」についてディベートをするための証拠資料の一つとしてこの本を読む。アメリカの動物園の現状について非常に冷静に、かつ多角的にこの問題について取材し検討しており、この問題について考える上で大いに参考になる。動物園関係者や将来動物園で働くことを目指す人にとっては必須の知識だろう。

構成も整理されており、序章で述べられるテリー・メープル氏の動物園の改革の骨子を目次として、各項目について慎重に検討されていく。

【本書の内容】

14 人間が野生の動物を飼う営みとは何なのか?人間・動物にとってそれぞれどんな意味があるのか?

20-32 80年代のアトランタ動物園は「最悪」
施設の古さ、動物へのケアの不十分、モラルの低さ
メナジェリー(Menagerie)…動物を狭い檻に入れて十分な飼育上の配慮をせずに見世物にするだけの施設

ジョージア工科大学教授 テリー・メープルによる改革
「動物園は自然保護の拠点となるべき。動物にきちんとしたケアを提供した上で、飼育下繁殖、科学研究に力を注ぐ。同時に環境教育の拠点とならなければならない」

・施設、展示手法、動物に与えられるスペース
ランドスケープ・イマージョン
人間側の都合による展示から生態展示(野生の生息地を人工的に作り出す)へ。

・獣医による適切な健康ケア、飼育、展示による心理的ストレスの緩和への努力
エンリッチメント

・希少種の繁殖
「種の保存計画」Speceis survival plansへの参加。

・飼育動物への科学的研究
「保全行動資源センター」Conservation Action ResourceCenterを組織し、多数の科学論文を発表。

・教育プログラム

32-動物園の展示手法
@ランドスケープ・イマージョン=生態展示
メリット→ゆったりとした展示の広さ
デメリット→人間から動物が離れて見えにくくなる
動物だけでなく入れ物も見える対象。展示によって動物園が環境教育に寄与できることを人に訴えかける。「とらわれの動物がかわいそう」という批判をかわすことができる。
舞台裏は殺風景な人工物。ただし、動物の習性を考え、行動選択の多様性が引き出されるような仕組みを持つ。(ジョン・コー)

展示はただ客に「見せる」だけではだめ。観る者を受動的にしてしまう。積極的にメッセージを伝えるような「仕掛け」が必要。文字情報と五感を使った「物語」に浸し込む。(フレイザー)

A動物の身体的・精神的健康を保つための積極的なトレーニング=エンリッチメント
客にとっても「自分の代理としてだれかが動物と直接コミュニケーションをとる姿を見たい」という欲求がある。

54-70 ジャングルワールド
室内型動物園
・熱帯雨林を模した環境
・メッセージ性(熱帯雨林減少速度の数値、世界人口増加の数値、ネイティブ・インディアンの言葉「つまるところ人間は愛するものしか守らない。理解できるものしか愛そうとしない。そして、知っているものしか理解しようとしない。」ブロングス動物園)
・狭く過密状態、不潔な状態、人間のルート以外は緑が全くないという場所もある(トロピッックワールド)
・湿度温度の徹底管理。閉鎖生態系を実現。だが膨大な電気使用。一つの建物が年間20万ドル以上。(ネブラスカ)複合展示による飼育動物の把握困難。

社会保護のための教育的ツールであると同時に、自然を逼迫する物質文明の権化。

72-90 エンリッチメント……飼育動物の身体的・肉体的健康を様々な手段で向上させる試み。人間が動物を飼育することにより発生した「責任」。
Animal Behabvior Management Team≠獣医、飼育員
・動物園精神病=同じ行動を繰り返す、自傷行為などを防ぐ
・ラジコンや大規模な機械を使って動物たちを遊ばせる…コストがかかり広まらず
@食べ物を使う
A新しい経験。音、匂い、視覚
B施設の改善(プールや土など動物たちの世界が変わるような変化)
C動物たちの社会的ニーズを考慮に入れる(群れが、孤立か)。トレーニングを通じて人間との交流をする。
93 クマの多くが異常行動
・野生では食べ物の探索に94%の時間を使っているがそれをさせていないため
・不規則なトレーニング
・餌のまきちらし

飼育員の負担増
108 ゾうの間接飼育とトレーニング
「間接飼育」…人は檻には入らない。人の安全確保。しかしゾウが病気やけがをしたときに処置できない。管理の放棄。
「トレーニング」…直接飼育するための訓練。ゾウを飼育するならば、ゾウを知らねばならない。だが、危険はつきまとう。

ゾウの繁殖計画(Speceis Survival Plan)により、ゾウの余剰が出たとき、それをどのように管理・飼育するのかが問題となる。

130- 希少動物の繁殖 
国際自然保護連合「動物園の役割は、野生動物の繁殖と環境教育」(1980・世界環境保全戦略)
Spesies Survival Plans
@動物の自家供給…ワシントン条約以降新たに野生動物を捕獲・輸入できない
A種の保護

・余剰個体の発生。安楽死の必要性。スペースの必要性。
・繁殖技術の個別・特殊性。種による技術確立の困難。
138 ゴリラの繁殖は難しい
遺伝子の多様性を維持したいが、ゴリラは一夫多妻の群れを作るため、繁殖に参加できないオスが出ることが課題。繁殖のための移動調整が必要。
139 ユキヒョウの繁殖は確立されている
創設個体38頭→250頭に。
しかし、余剰個体の発生が課題。安楽死をした方が効率的だが、倫理上行っていない。
140 オオサイチョウの繁殖も困難
飼育下72羽。種の習性を理解し、その環境を整えることで繁殖率が向上。
144 ヨウスコウワニ…飼育下繁殖は上手くいっているが、生息地が護られていない。
146 チーター…他のネコ科と比べて遺伝子の多様性が極端に少ない。
「一万年ほど前に何らかの理由で絶滅しかけたため」との仮説が信じられ、繁殖の困難さが正当化されていたが、飼育方法に問題があることがわかった。本来一頭だけで生きるのに、複数頭を同じ環境で飼育していたこと。
147 オランウータン…
・スマトラとボルネオの亜種を区別するか、混合するかという問題。
・寿命が長く、余剰個体が発生しやすい。
147 サイ…全ての種で繁殖困難。
シロサイの場合、飼育下120頭のうち繁殖できたのは3%。老齢化が進む。群れの飼育が望ましいがスペース確保が困難。
148 ゾウ…移動のコスト、オスの取り扱いの困難さ
200キロの移動で15000ドル。
気性の穏やかなメスを移動させるが、本来はオスが群れから群れへ移動をする習性。習性に反している。
149 タンチョウヅル…繁殖が順調。卵段階で移動できる。
149 フンボルトペンギン…飼育技術が確立されているが、ケープペンギン4の方が人気で、飼育する園を増やす必要がある。

150 「全世界の動物園が占めているスペースを足し算してもニューヨークのブルックリン地区の面積(210平方キロ)にしかならない。これは一頭のシベリアトラのテリトリーより狭い。ここでできることはたかがしれている。しかし、ここでどれだけできるのかが問題だ。」ウイリアム・コンウェイ園長(ブロンクス動物園)
『国際動物年間』(1984)には54万個体→繁殖計画に組み込めるのは500種程度。危機に瀕している動物のほんの一部にしか過ぎない。
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TraMasa Tanaka…Republk In.don.

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#КРОМХФθ #Naska #Nix. #Ncsca #ApacheXMai #Nascatoras #rayTailangKahn.

TraMasa Tanaka… #Republk_In.don.

ロッキー〜マレーシア〜秩父潜伏戦犯。 → Rocky-Malaysia-Chichibu hiding war crime.

ベトナム戦争時、韓国軍第3保管衛生班班長豸昧畏…大柄なライタイハン。 → At the time oftheVietnam War,it isthethird Korean military Safekeeping,hygiene squad,group leader- 豸昧畏(Timaii). Large rye Thailand Kahn.

ベトナムのダルマ強姦魔。 → AVietnamese Dharma doll rapist.

ベトナムで小柄な男性を殺害し、首や目ををすげ替えた。 → Killedasmall-sized man in Vietnam and exchanged neck and eyes.

第一次世界大戦中、pyonyang.に近付き、利用。 → During World War I, approach pyonyang. and use it.

「モンゴルの司馬」と名乗る男の女(実は男性)の「ウメ(馬萠)」の共犯の男。 → Aman ofthecomplicity of"theplum"(馬萠)ofthewoman(in fact,male)oftheman named"theMongolian government position in ancient China."

大戦中のドイツで「耕運機」を改造した「偽日本軍車両」の後ろの方に座っていた「キツネ目」の男。 → Theman of"thefox eyes" which sat down on towardstheback of"thefalse Japanese military vehicle" whichIremodeled"thefarm tractor" into in Germany duringtheGreat War.

日本の「吉田叉三鳬稜」と名乗って居た人の殺害教唆犯である。 → It isthekilling abettor oftheperson who had "Matasaburou Yoshida" and self-introduction of Japan. Playasmall-sized "brain fever" old woman now,;butthehabitual offender of"thedrug with stimulant."

今は小柄な「脳症」老婆を演じているが「覚醒剤入りドラッグ」の常習者。 → Playasmall-sized "brain fever" old woman now,;butthehabitual offender of"thedrug with stimulant."


顔と首から下の肌質が違うので分かる。 → Quality of lower skin is identified asaface in different one fromaneck.

癘病や人食いバクテリア等で異常な体でも分かるらしい。 → Seem to understand evenanabnormal body in Leprosy(Hansen's disease) or flesh-eating bacteria.

大井の貨物倉庫群に居ると判明。 → Proved to be inthefreight warehouse group of Ooi.

アンテナは全て破壊して頂きたい。 → Want you to destroy alltheantennas.

私の亡くなった祖母の「横浜かほる」を偽る、LGの初代社長の実弟。 → Atrue younger brother of President Hatsuyo of LG feigning "Yokohama Kaoru" of my late grandmother.

生まれ変わる為の準備をしているらしい。 → Seem to get ready to be rebeared.

その為に日本国内での「クーデター」と偽る強盗犯罪等の教唆を止めない。 → Therefore not stoptheinstigation such as robbery crimes under the pretense of"acoup d'etat" in Japan.

今は「朝鮮ドラッグの紅蓮(Goolen.)」のMariaTanabe.39歳と偽っているが来月3日に104歳になるアメリカ国籍だった"Tra Masa Tanaka"。 → "Tra Masa Tanaka" of the 7year's ago United States nationality which pretend to be Maria Tanabe.39 age of "flaming red (Goolen.) oftheKorea drug" now,but becomes 104 years old on next month 3.

グリーン・カードでアメリカ国籍を取得したが、5年以上、連絡が取れなかったのでアメリカ国籍を剥奪され、今は「モスキーノ」と呼ばれるエリアの国籍である。 → Acquired American nationality byagreen card,but because did not get communication,more than five years,United States nationality is deprived of and isthenationality ofthearea called "Moschino" now.

元々は「アパッチ・ナスカ・マチュピチュ・インドネシアン」と呼ばれる東南アジアでも国を持たない「漂流民族・流浪の民族」と呼ばれるアジアの人種でも朝鮮人でも無い種族である → Originally evenaKorean isthefamily which there is not bytheAsian race called"adrifting race, thenomadic people family" which does not haveacountry in Southeast Asia called "Apache Nazca Machu Picchu Republic of Indonesia; Republik Indonesia; Indonesia" either.


単語ごとの対訳

日本語
英語での表現

らい病
leprosy

ハンセン病
Hansen disease; Hansen’s disease

グリーンカード
green card

アメリカ
USA; America; United States of America; U.S.A.

国籍
nationality; citizenship

取得した
obtained


grade; year

以上
the above

連絡
connexion; junction; connection; correspondence; communication; contact


appropriation; obtaining

なかった
did not

アメリカ
USA; America; United States of America; U.S.A.

国籍
nationality; citizenship

剥奪
deprivation

今は
now

モスキーノ
MOSCHINO

と呼ばれる
called

エリア
area

国籍
nationality; citizenship

である
be

日本語
英語での表現

元々
originally

アパッチ
Apache

ナスカ
Nasca

マチュピチュ
machu picchu

インドネシア
Republic of Indonesia; Republik Indonesia; Indonesia

と呼ばれる
called

東南アジア
Southeast Asia


state; land; nation; country

持たない
do not have

漂流
drift

民族
race; people; nation

流浪の民
wandering people; nomadic tribe


group

と呼ばれる
called

アジアの
Asian

人種
race; ethnic group

朝鮮人
Korean

無い
unowned, ownerless

種族
tribe; stirp

である
be


http://ireashukinz.blogspot.com/2011/12/blog-post_12.html?spref=fb

『動物園にできること「種の箱舟」のゆくえ』川端裕人(文集文庫) → ireashukinz.blogspot.com

"Whereabouts Hiroto Kawabata(collection of works library)ofthething "ark ofthekind" made inthezoo"



「他人になりすます」に関連した英語例文の一覧 - Weblio英
http://p222.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/0927iW2hFBzgqCDu/0?_jig_=http%3A%2F%2Fejje.weblio.jp%2Fsentence%2Fcontent%2F%25E4%25BB%2596%25E4%25BA%25BA%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AA%25E3%2582%258A%25E3%2581%2599%25E3%2581%25BE%25E3%2581%2599&_jig_keyword_=%90%AC%82%E8%8D%CF%82%DC%82%B7%20%97%E1%95%B6&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2590%25AC%2582%25E8%258D%25CF%2582%25DC%2582%25B7%2B%2597%25E1%2595%25B6%26b%3D3%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on
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火消し 「架章: 鍛治と剣跨はエエドワードの派名」? 其の弐

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江戸の町火消[編集]

店火消[編集]

店火消(たなびけし)は、町人が自身で組織した火消[注釈 13]。

幕府は町人地の火事に対し、慶安元年(1648年)に「各町に人足を10人ずつ備えておくこと、消火に参加したものには褒美を・参加しなかったものには罰を与える(要約)」との触を出した。

こうして火事の際に動員された町人を店火消あるいは駆付火消(かけつけびけし)と呼ぶが、武家火消のように制度化されたものではなかった。

明暦の大火後の万治元年(1658年)、南伝馬町など23町が火消人足167人を集め、共同で消火に当たる取り決めの火消組合を設ける。

この火消人足は町名と印のついた羽織を着用するなど、後の町火消の原型といえる。

幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様の活動を求めた。

しかし、火消人足の常時雇いは負担が大きいことから、23町以外には広がりを見せなかった。


町火消[編集]

名所江戸百景より「馬喰町初音の馬場」中央に町火消の火の見櫓[9]

町火消(まちびけし)は、第8代将軍徳川吉宗の時代にはじまる町人による火消。

財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題となった。

享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。

町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。

これにより、火事の際には1町につき30人ずつ、火元から見て風上の2町と風脇の左右2町、計6町180人体制で消火に当たることになった。

しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった。

享保5年(1720年)、地域割りを修正し、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられた。

同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)をつくらせた。

これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった。

享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。

一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17596人から9378人となった[17]。

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括された。

元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。

この年の定員は10642人で、そのうち鳶人足が4077人・店人足が6565人であった[18](鳶人足と店人足の違いについては後述)。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。

これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである。

いろは組とその纏(落合芳幾)


いろは組[編集]

いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。

いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。

これは、組名称が「へ=屁」「ら=摩羅」「ひ=火」「ん=終わり」に通じることを嫌ったためであるという[注釈 14]。

いろは四八組のうち、「め組」は文化2年(1805年)に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代には竹柴基水の作で歌舞伎の演目『神明恵和合取組』にも取り上げられた。


橋火消[編集]

町人により組織された火消としては、享保7年(1722年)に成立した橋火消(はしびけし)もあげられる。

これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。

橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。

これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。

町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。

また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた。

享保20年(1735年)、橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった。

のちに天保13年(1842年)、天保の改革により髪結床組合が解散すると、町奉行所への駆けつけは名主たちに命じられている[19]。

幕末にかけての町火消の活動[編集]

町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。

しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととなった。

享保7年(1722年)には2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命じられる。

以降も享保16年(1731年)に幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった。

延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。

二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられた。

以後も天保9年(1838年)の西の丸出火や同15年(1844年)の本丸出火などで江戸城内へ出動し、目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている。

幕末には、定火消が1組のみに改編されるなど武家火消が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に町火消へと委ねられた。

さらに、町火消の活動は消防のみにとどまらず、黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動も行なっている。

また、元治元年(1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消に兵事訓練を行なうなど、衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった[注釈 15]。

明治5年(1872年)、新政府によって町火消は消防組39組へと改められ、その活動は現在の消防団へと繋がっていく。

のちに大正元年(1912年)、町火消成立以降に殉職した火消の慰霊と顕彰を目的とし、浅草寺に「消防殉職者表彰碑」が建立された。

第2次世界大戦までは11月3日に、戦後は5月25日に慰霊祭が行なわれている[注釈 16]。


江戸以外での火消[編集]

江戸以外の大都市や各藩の城下町でも、火消は存在したが、江戸のように大規模で制度化されたものとはならなかった。

例外的に加賀藩前田家の本国金沢の町では、1000石以上の藩士10名を火消役とし、火の見櫓を備えた屋敷に常時火事装束で待機させるなど、消防組織が整備されていた。

町内には82箇所もの火の見梯子が設けられ、家々の屋根には水を入れる天水桶が常備されていた。

風の強い日には町人に男女を問わず火の用心の巡回をさせるなど、江戸よりも進んだ防火体制がとられていた。

江戸において加賀鳶が活躍した背景には、こうした加賀藩の充実した防災制度があるという[22]。

明治維新後、東京(江戸)では町火消を消防組に改編し制度化していたが、全国的に統一された規則は作られなかった。

そのため、東京以外での消防組織は、各市町村の条例により、あるいは私的に設けられていた。

この状態は、明治27年(1894年)に消防組規則が制定され、警察署長が監督する官設消防組が誕生するまで続いた[23]。


火消人足[編集]

臥煙[編集]

臥煙(がえん、臥烟)は定火消に召し抱えられた火消人足。

定火消が火事場で行なう消火活動の主力である。

消防のために雇われた丸抱えであり、他に鳶などの本業を持っていた町火消の火消人足とは異なる。

火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた[24]。真冬でも法被1枚で過ごし、全身に彫り物をしたものが多かった。

普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打や喧嘩で騒動を起こすこともあった。

臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、髷は奴銀杏(やっこいちょう)という、特殊な粋な結い方をした。

出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない。

また、町に出ては商家に銭緡(ぜにさし)[注釈 17]を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった。


店人足と鳶人足[編集]

町火消の構成員は、当初地借・店借(店子)・奉公人など、店人足(たなにんそく)と呼ばれる一般の町人であった。

これは、享保4年(1719年)に名主に対し、鳶職人を雇わないようにとの触が出されていたためである[注釈 18]。

しかし、江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐため火災付近から建物を破壊していくという破壊消防が主であり、一般の町人よりも鳶職人に適性があることは明らかであった。

名主たちの、大勢の店人足を差し出すよりも少数の鳶を差し出した方が有効であるとの訴えもあって、町火消の中心は鳶を生業とする鳶人足(とびにんそく)によって構成されるようになっていった[注釈 19]。

鳶人足に対しては、町内費から足留銭[注釈 20]をはじめ、頭巾・法被・股引などの火事装束も支給されていた。

また、火事で出動した場合には足留銭とは別に手当てが支給された。

火事が起こると、定められた火消人足のうちからまず鳶人足を出動させ、大火の場合は残りの店人足も出動させた。


町火消の構成[編集]

町火消は町奉行の指揮下に置かれ、町火消を統率する頭取(とうどり、人足頭取)、いろは組などの各組を統率する頭(かしら、組頭)、纏持と梯子持(合わせて道具持)、平人(ひらびと、鳶人足)、土手組(どてぐみ、下人足、火消の数には含まれない)といった構成になっていた。

頭取には一老・二老・御職の階級があり、御職は顔役とも呼ばれ、江戸市中で広く知られる存在であった。

江戸全体で約270人いた頭取[注釈 21]は、力士や与力と並んで江戸三男と呼ばれ人気があり、江戸っ子の代表でもあった[27]。


喧嘩[編集]

火消人足による喧嘩は、火事場での喧嘩と、火事とは無関係な喧嘩とに大別できる。

前者は火消人足同士による消火活動時の功名争いが主な原因であり、消口争い(けしくちあらそい)と呼ばれた。

後者は火消人足の気性の荒さや地元での縄張り意識などが原因であり、喧嘩相手も同じ火消人足とは限らない。

町火消同士での喧嘩では、死者が出たり、仲直りのため多大な費用をかけた手打式が行なわれたりと、大きな騒ぎになることも度々であった。

文政元年(1818年)の「ち組」と「を組」の手打式では、両国の座敷を借り上げ、江戸中の組合から1000人を越える人々が集まり、決められた作法と口上によって朝から夕方まで盛大に行なわれている[5]。


消口争い[編集]

火消が火事場に到着すると、組の名前を書いた木札(消札、けしふだ)を近所の軒先に掲げ、纏持を屋根に登らせて集合の目印にするとともに、誰が活動しているのかを知らしめた。

消札は褒美を受けるときの証拠でもあったため、後から駆けつけたにもかかわらず自身の組の札と勝手に取り替えるもの、纏持を屋根から無理やり降ろして自身の組で火事場を乗っ取ろうとするものなどが現れ、肝心の消火活動をせずに喧嘩をはじめることも頻繁であった。

幕府はしばしば触を出して火事場での喧嘩を禁止したが、江戸時代初期には武家火消同士で、町火消誕生後は武家火消と町火消で、武家火消が衰退すると町火消同士で、といった具合で功名争いは絶えず、喧嘩がなくなることはなかった。

享保3年(1718年)、定火消と加賀鳶の間に起きた喧嘩では、現場での消口争いから始まり、死者を出した定火消側の仙石兵庫が加賀藩主前田綱紀に賠償を求める事態となる。

老中への訴え、町奉行大岡忠相による調査と続き、最終的には将軍徳川吉宗が仙石兵庫に厳重注意を与える結末[注釈 22]となる、大騒動であった。


め組の喧嘩[編集]

詳細は「め組の喧嘩」を参照 文化2年(1805年)正月、芝神宮境内で行なわれていた勧進相撲の見物で、鳶人足の入場を巡ってはじまった[注釈 23]争いは、力士十数人とめ組の火消人足100人以上との喧嘩に発展した。

この喧嘩は大きな話題となり、文政5年(1822年)の市村座『御摂曾我閏正月』・明治5年(1872年)の中村座『恋慕相撲春顔触』・明治23年(1890年)の新富座『神明恵和合取組』と、3度にわたって芝居化された。


火消道具[編集]

詳細はそれぞれの内部リンクを参照


纏と火事装束[編集]

め組の纏(東映太秦映画村で再現されたもの)


纏(まとい)は、江戸消防のシンボルであり、「纏が火を消した」と言われることすらあった[28]。

もともとは、武士が戦場で掲げていた家紋つきの旗印や馬印に由来するものである。

当初は幟型の纏が使用されていたが、のちに陀志(だし)と呼ばれる大きな頭部分と、馬簾(ばれん、纏の周囲に細長い厚紙や革を垂れ下げたもの)を備えた型に代わっている。

各組を象徴するものとして様々なものがあり、豊臣秀吉から拝領したという伝承のあった加賀鳶の纏や、大岡忠相が考案し丸玉と四角の台を組み合わせた「い組」の纏[注釈 24]などがあげられる。

大名火消の火事装束は、頭に火事頭巾(火事かぶと)、身体には革羽織に胸当・踏込(ふんごみ、あるいは野袴)といったものである。

火事頭巾には豪華な立物や錣(しころ)が取り付けられ、革羽織には金糸の縁取りや派手な彩色が施されるなど、華美であった。

町火消の盛装は、印半天、腹掛、股引などである。

火事場へはさらに刺子頭巾(猫頭巾、目の部分だけが開いている)、膝下まである刺子長半天などを着て出動した。

半天の背中には組の紋が、えりには組名が染めつけられていた。

刺子長半天には裏地に錦絵風の模様をつけた豪華なものもあったが、天保の改革によって規制されている。


消防用具と火の見櫓[編集]

水鉄砲

江戸の町中に常設されていた消防用の桶(深川江戸資料館)

火事場では、消火のため様々な道具が用いられた。

梯子は、梯子持と呼ばれた平の鳶人足より上位のものが取り扱い、屋根に登ったり水を運び上げる足場として使用された。

燃えにくいように、水を含んだ青竹の新しいもので作られていた。

鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた、指俣)・鋸などは、火元や周囲の建物を破壊し延焼を防ぐために使用された。

鳶口は、火消が必ず持っていた道具としてあげられ、しばしば喧嘩にも用いられたため、幕府によって長さに制限が設けられていた。

竜吐水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・水鉄砲・玄蕃桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)などは、水を火元に直接かけたり、火消人足に水をかけたりするために使用された。

竜吐水は木製の手押ポンプで、空気の圧力を用い水を15mほど飛ばすことができた。

しかし、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役にたたなかったという。

そのほか、火の粉を払い延焼を防ぐための大団扇や水筵(みずむしろ、海草で作られ水に浸して使う。

ぬらすために水箱と呼ばれるものを使用した)なども火事場で用いられた。

火事を早期に発見するために設けられた設備として、火の見櫓・火の見梯子がある。

発見した火事を知らせたり、出動の合図としては半鐘や板木が使用され、火事場の遠近などによって叩き方が定められていた。


脚注[編集]


注釈[編集]

^ 「火消し」という「し」を付けた表記も幅広く用いられているが、参考文献であげた書籍が基本的に「火消」の表記を採用しているため、本項では冒頭文を除き「火消」に統一する。

^ 火事の回数については研究者により差異が存在する。ここでは『江戸の火事』P.3の記述を参考に回数を引用した。

^ 火事に紛れての兵乱などが警戒され、治安維持を優先していた[2]。

^ 所々火消・方角火消・各自火消などは、この大名火消の一種である。

^ 水谷勝隆・伊東祐久・加藤泰興などに命じられている。翌正保元年(1644年)には10家3組に、正保3年には9家3組に、慶安2年(1649年)には10家3組にと編成が変わっていく[6]。

^ 犠牲者の数は10万人台との説もあるが、ここでは内閣府防災部門の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による平成16年3月の報告書[1]の人数をあげた。

^ 大名屋敷の火の見櫓建築には制限があり、方角火消では3丈(約9.1m)、それ以外の大名では建築を許された場合でも2丈5尺(約7.6m)までであった[8]。

^ 慶安3年(1650年)、4000石以上の旗本2名を火消役に任命したことを定火消のはじまりとする説もある。1658年説-『江戸の火事』『江戸学事典』など、1650年説-『江戸の火事と火消』『新消防雑学事典二訂版』など。

^ 定火消削減の理由は、江戸幕府の財政難にある。代わって八王子千人同心に火消役が命じられたが、大きな活動はなくやがて廃止された[12]。

^ 米沢藩上杉家の場合、『上杉家年譜』寛永18年(1641年)に火事で老中奉書により出動した記録で「防火士頭」「火消方」などの記述が見られる[13]。

^ この場合の「町」は尺貫法の単位であり、1町は約109m。

^ 参勤交代が3年に1度・江戸在留期間も100日となり、人質であった大名妻子の帰国も許されたため、江戸藩邸の人員が大幅に減少し火消役を維持できなくなった[16]。

^ 店火消に関しては、「何をもって店火消と呼ぶか」「誕生の時期・活動時期はいつか」などで諸説がある。「江戸における店火消の動向」では、店火消に関する研究の不足を指摘したうえで、町火消誕生後も幕末にいたるまで、店火消が江戸の消防に大きな役割を果たしていたとしている。

^ 「ひ」が「火」に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・「ん」は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、「四=死」「七=質」に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照。

^ このことに関して、山本純美は著書において「本末転倒もはなはだしい」「消防制度誤用の珍しい例」と評している[20]。

^ 町火消時代から昭和14年(1939年)までの殉職者118人の名が記されている[21]。

^ 寛永通宝など銭貨中央の穴に通して束にするため使用する、細い縄や紐のこと。

^ 翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである[25]。

^ 「せ組」の場合、差し出す火消人足281人を、鳶人足70人に代えることが認められている[26]。

^ 本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用。

^ 『江戸の火事と火消』P.63による。『江戸の火事』P.97では弘化年間に頭取が177人いたとしている。

^ 加賀鳶が消火を終えかけたところに、仙石兵庫の組が割り込んだと認められたため。

^ こうした興行では、地元の鳶人足であれば入場は自由であったが、このときは地元以外のものを連れて入場しようとしたことが争いの原因である。

^ 丸玉は芥子玉で、四角の台は枡であり、「消します」との意味が込められているという説がある。また、丸玉は天で、四角の台が地をあらわすという天地陰陽説もある[29]。


出典[編集]

^ 『江戸の火事と火消』P.23

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.95

^ 『消防博物館歴史案内』江戸火消編「武家火消の誕生」

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.102

^a b c 『元禄武鑑』による。(『江戸学事典』P.577)

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.98

^ 『江戸の火事と火消』P.49

^ 『江戸の火事』P.37

^a b 『江戸消防 創立五十周年記念』P.74

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.100

^ 『東京の消防百年の歩み』P.21

^ 『江戸を知る事典』P.43

^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.112

^ 『江戸の火事』P.39

^ 『江戸三火消図鑑』P.196

^ 『町火消たちの近代』P.42

^ 『江戸の火事』P.82

^ 『江戸の火事と火消』P.59

^ 『江戸の火事』P.90

^ 『江戸の火事と火消』P.93

^ 『江戸三火消図鑑』P.225

^ 『江戸の火事と火消』P.52

^ 『町火消たちの近代』P.146

^ 『江戸三火消図鑑』P.193

^ 『町火消たちの近代』P.18

^ 『町火消たちの近代』P.21

^ 『江戸の火事』P.98

^ 『江戸三火消図鑑』P.197

^ 『江戸三火消図鑑』P.198


参考文献[編集]

書籍[編集]

池上彰彦「江戸火消制度の成立と展開」『江戸町人の研究 第5巻』西山松之助編、吉川弘文館、1978年

小沢詠美子「江戸における店火消の動向」『徳川幕府と巨大都市江戸』竹内誠編、東京堂出版、2003年

加藤貴編『江戸を知る事典』東京堂出版、2004年

黒木喬『江戸の火事』同成社、1999年

社団法人江戸消防記念会『江戸消防 創立五十周年記念』東京消防庁監修、非売品、2004年

鈴木淳『町火消たちの近代』吉川弘文館、1999年

東京消防庁『東京の消防百年の歩み』東京の消防百年記念行事推進委員会編、非売品、1980年

東京消防庁・江戸火消研究会監修『江戸三火消図鑑』岩崎美術社、1988年

西山松之助編『江戸学事典』弘文堂、1994年

山本純美『江戸の火事と火消』河出書房新社、1993年


外部リンク[編集]

消防の歴史- 消防防災博物館(財団法人消防科学総合センターによるインターネット上の仮想博物館)


関連項目[編集]

江戸の火事

日本の消防

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火消し(江戸弁読み : シケヒ?) 組織の構成員? 其の壱

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火消 - Wikipedia
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火消


東京名所八代洲町警視庁火消出初梯子乗之図(部分)、歌川広重(3代目)、明治維新後の火消出初式


火消(ひけし、火消し)とは、江戸時代の消防組織とその構成員である[注釈 1]。


概要[編集]

消防組織としての火消は、江戸においては江戸幕府により、頻発する火事に対応する防火・消火制度として定められた。武士によって組織された武家火消(ぶけびけし)と、町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別される。

武家火消は幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)と、大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうびけし)に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在していた[1]。

江戸時代初期には火消の制度が定められておらず、度重なる大火を契機にまず武家火消が制度化され、発達していった。

江戸時代中期に入ると、享保の改革によって町火消が制度化される。

そののち、江戸時代後期から幕末にかけては、町火消が武家火消に代わって江戸の消防活動の中核を担うようになっていった。

江戸以外の大都市や各藩の城下町などでも、それぞれ火消の制度が定められていた。

これらの消防組織は、明治維新後に廃止・改編されるが、その系譜は現代の消防署・消防団へと繋がっている。

消防組織の構成員としての火消は、火消人足(ひけしにんそく)とも言う。

定火消の配下であった臥煙(がえん)、町火消の中核をなした鳶人足(とびにんそく)などがあげられる。

組織ごとの対抗心や気性の荒さから、「加賀鳶と定火消の喧嘩」や「め組の喧嘩」などの騒動を起こすこともあった。

火消人足による消火の方法は、火事場周辺の建物を破壊し延焼を防ぐ破壊消防(除去消火法)が用いられ、明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい、木製手押ポンプ)なども補助的に使用された。


江戸と火事[編集]

詳細は「江戸の火事」を参照 火消制度は、江戸において発展を遂げ、その構成員が1万人を上回る時期も長く存在した大規模なものであった。

これは、慶長6年(1601年)から慶応3年(1867年)の267年間に大火だけで49回、小火も含めると1798回もの火事が発生した[注釈 2]という、江戸の特異な事情が大きく影響している。


江戸の武家火消[編集]

江戸時代初期[編集]

江戸時代初期の江戸では、火消の制度が定められていなかった。江戸城が火事となった場合には老中・若年寄が大番組・書院番組・鉄砲組などの旗本に命じて消火を行った。

江戸市中においては、大名屋敷や旗本屋敷など武家地で火事となった場合は付近の大名・旗本が自身で、長屋・商家など町人地での火事は町人自身が消火を行なうという状態であり、組織的な消防制度は存在しなかった。

幕府が慶長18年(1613年)に出した禁令では、町人地の火事に武家奉公人が駆けつけることを禁じており、武家地と町人地を明確に区分する方針であったことも影響している[注釈 3]。


奉書火消[編集]

奉書火消(ほうしょびけし)は、寛永6年(1629年)、第3代将軍徳川家光の時代にはじまる火消[3]。

これは火事の際、老中の名で「奉書」を諸大名に送り、召集して消火に当たらせるというものである。

この方法は、火事が起きてから奉書を用意して大名に使者を出し、使者を受けて大名が家臣を引き連れ現場に向かうという、迅速さに欠けるものであった。

また、駆けつける大名や家臣にしても、常時より消火の訓練を行なっているわけではなく、火事に対して有効な手段とはならなかった。


所々火消[編集]

江戸中心部の地名

所々火消(しょしょびけし)は、寛永16年(1639年)にはじまる火消。 同年に江戸城本丸が火事となったことを契機に、江戸城内の紅葉山霊廟に対する消防役を、譜代大名の森川重政に命じたことがはじまりである[4]。
この所々火消は、後述の大名火消の中で担当場所が定められていたものであり、幕府にとっての重要地を火事から守るため設けられた、専門の火消役であった。

所々火消が定められた場所は元禄年間にかけて増加し、江戸城各所をはじめ、寛永寺・増上寺などの寺社、両国橋・永代橋などの橋梁、本所御米蔵などの蔵を、36大名が担当するようになった[5]。

のちに享保7年(1722年)、第8代将軍徳川吉宗により、重要地11箇所をそれぞれ1大名に担当させる方式に改編された。

担当場所は、江戸城内の5箇所(紅葉山霊廟・大手方・桜田方・二の丸・吹上)、城外の蔵3箇所(浅草御米蔵・本所御米蔵・本所猿江材木蔵)、寺社3箇所(上野寛永寺・芝増上寺・湯島聖堂)である。

江戸城内の最重要地に対する所々火消は譜代大名に命じられ、外様大名が命じられたのは本所御米蔵など江戸城外の施設であった。


大名火消[編集]

大名火消(だいみょうびけし)は、寛永20年(1643年)にはじまる火消[注釈 4]。

寛永18年(1641年)正月、京橋桶町から発生した火事は、江戸の大半を焼くという大きな被害を出した。

この桶町火事に際しては、将軍家光自身が大手門で指揮を取り、奉書により召集した諸大名にも消火活動を行なわせたものの、火勢を食い止めることはできなかった[5]。

桶町火事より2年後の寛永20年、幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた[注釈 5]。

奉書火消を制度化したものであり、この火消役は選ばれた大名自らが指揮を取った。

1万石につき30人ずつの定員420人を1組とし、1組は10日交代で消火活動を担当した。

火事が発生すると火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされていた。

大火の場合には従来通り老中から奉書を送り、正式に召集して消火に当たらせた。

これはそれまでの奉書火消と区別して増火消(ましびけし)と呼ばれる。 大名火消は火事が起こると、華麗な火事装束に身を包んだ家臣に隊列を組ませ、現場まで行進して消火活動に当たった。

大名自らが火事場に向かうこともあってその火事装束は次第に華美で派手なものとなり、たびたび幕府によって規制されている。

しかし傾向は変わらず、なかには消火活動中に装束の着替えを3度も行なう大名まであらわれ、そのため大勢の見物人が集まってきたという例もある[7]。


明暦の大火以降[編集]

明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事は、江戸の歴史上最悪の被害となった。

明暦の大火(振袖火事)と呼ばれるこの火事のため、江戸城天守閣は焼失し、江戸市中で約68000人ともされる犠牲者を出した[注釈 6]。

明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注いだ。

江戸市中の再建では、大名屋敷・旗本屋敷や寺社の一部を郊外に移転させ、延焼を防ぐための火除地を確保した。

また、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築を奨励し、火事に強い町づくりを目指した。

そして、新たな消防組織である方角火消・定火消を編成している。


方角火消[編集]

方角火消(ほうがくびけし)は、明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱の時代にはじまる火消。

明暦の大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役がはじまりである。

大名火消の一種で、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たることとなっていた。

元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった。

正徳2年(1712年)、5方角5組に改編。

享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、火事の際はそれぞれ大手門・桜田門に集結した。

大手組・桜田組への改編後は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。

消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。

担当は参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷では通常より高い火の見櫓の建築が許された[注釈 7]。

方角火消や所々火消の定員は大名の石高によって異なっていた。1万石以上では騎馬3-4騎、足軽20人、中間・人足30人。

10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140-150人。20万石以上で騎馬15-20騎、足軽120-130人、中間・人足250-300人、などである。


定火消[編集]

名所江戸百景より「びくにはし雪中」左奥に武家火消の火の見櫓[9]

定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)にはじまる[注釈 8]幕府直轄の火消。

明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房・近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。

幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。

4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙と呼ばれる専門の火消人足を雇う費用として300人扶持を加算した。

4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。

この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである[10]。

それぞれの担当地域で火事が発生すると、出動して武家地・町人地の区別なく消火活動に当たった。

定火消は火事場の治安維持も担当し、鉄砲の所持と演習が許可されていた。

翌年正月の1月4日には、老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なった。

これが出初式のはじまりとなり、以降毎年1月4日には上野東照宮で出初が行なわれるようになった[11]。

万治2年・3年にかけて代官町など4箇所、寛文2年(1662年)と元禄8年(1695年)にも日本橋浜町などが追加で設けられ、合わせて15組が江戸城を取りまくように配置された。

しかし、宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる[注釈 9]。

このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた。

10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池・赤坂門外・飯田町・市谷左内坂・小川町・御茶ノ水・麹町半蔵門外・駿河台・八重洲河岸・四谷門外であった。

定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。

火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。

敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓と半鐘がそなえられていた。

この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。

屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。

夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。

出動に当たっては火事装束を身につけ、纏番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。


享保の改革[編集]

徳川吉宗

江戸時代中期に入り、8代将軍徳川吉宗の時代には、享保の改革が行なわれた。

改革では消防制度の見直しも実施され、所々火消・方角火消の改編や火事場見廻役の新設などが行なわれた。

さらに、諸大名の自衛消防組織である各自火消に対し、近所の火事へ出動義務を拡大するなど、武家地の消防体制が強化された。

町人地の火事に対する大きな改革としては、大岡忠相が主導した、町人の消防組織である町火消の制度化があげられる(後述の町火消を参照)。


各自火消[編集]

各自火消(かくじびけし)は、諸大名が自身で組織した火消。 はじまりは自身の大名屋敷を防火・消火するための消防組織であり、早くから存在していた[注釈 10]。

天和元年(1681年)ごろから、近所で火事が起きた場合は家来に消火させるよう幕府から指示が出ていたが、享保2年(1717年)、近隣の火事に対する出動が義務付けられ、近所火消(きんじょびけし)とも呼ばれた。

翌3年には、上屋敷だけでなく、中屋敷や下屋敷からも出動するように命じられている。

定められた出動範囲により三町火消・五町火消・八町火消などの別称もあった[注釈 11]。

大名の縁戚の屋敷や菩提寺へ、範囲を越えて駆けつける場合は、見舞火消(みまいびけし)と称したという[14]。

各自火消(大名火消)としては、3組を有した加賀藩前田家の加賀鳶(かがとび、喧嘩鳶)が、その派手な装束と比類ない働きぶりで有名である[15]。

加賀鳶の行列は歌川豊国や歌川国芳により浮世絵として描かれた。

また、河竹黙阿弥の作で歌舞伎の演目『盲長屋梅加賀鳶』にも登場している。

旗本に対しては、享保7年(1722年)に飛火防組合(とびひふせぎくみあい)65組をつくらせ、組合内での火事へ出動するよう命じている。


幕末にかけての武家火消の活動[編集]

享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。

元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。

寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。

文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。

こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。

黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。

文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。

慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。

この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった[注釈 12]。

明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。

火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。
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日本人とは…古来より居住、列島にルーツを持つ人々の総称…!?

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日本人と邦人 - Wikipedia
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日本人


日本人(にほんじん、にっぽんじん)とは、一般に日本国の国籍を持つ者、もしくは日本国内に古来より居住してきた、日本列島にルーツ(起源・祖先・由来等)を持つ人々の総称である。


概要

日本では、国籍、文化・習俗・民族、遺伝的形質のそれぞれを基準とした分類による「日本人」の対象が重なることが多いため、概念的にもどの基準によるものかは日常的には明確にされず、しばしば混同される。


定義と分類

日本人は、次のような幾つかの考え方により定義・分類が可能である。

国家による分類 -日本国民[1][2]。ただし、「日本」を国号としたのは701年(大宝元年)頃とされており、それ以前は「倭国」と自称していた。なお「倭人」と言う名称は中国からの呼び方であり、蔑称とする説もある(倭人を参照)。

地理的分類 - 日本列島に居住する者。[要出典]

人類学的分類 -モンゴロイドの一つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から琉球諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ[3]。シベリア、樺太、朝鮮半島などを経由する北方ルート[4]、南西諸島などを経由する南方ルート[5]など複数の渡来経路が考えられる[6]。


民族としての形成

「民族」および「大和民族」を参照 以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。


石器時代の日本人

石器時代の日本列島には下記の人が活動した記録がある。

種子島の横峯遺跡からは、約3万年以上前の地層からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の地層は火山灰による時代の確認が容易である。

愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されている。


縄文人と弥生人

先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる[7]。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する日本人を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない[8]。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある(下記「学説」参照)。 倭人の住居地は『山海経』および『後漢書』の時代から日本列島を指している[9]。 日本人の旧対外的な名称である倭人は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』『論衡』にて登場する。この頃には既に他民族から見て日本人とその他周辺諸民族との区分けがなされていたことになる。 大和盆地の王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州・四国・九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九
州の熊襲と呼ばれた諸部族・諸王権は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族・諸王権は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は朝鮮半島の支配から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。


「日本民族」の形成

古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。 「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

ネーションステート下の認識

大日本帝国の版図

「大日本帝国」を参照 日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された植民地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は「内地人」と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。 南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。


系統

以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

系統関係

詳細は「モンゴロイド」および「人種」を参照 形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内土着の住民が、いずれもモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では中国人や朝鮮人などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットやアメリカ先住民も含まれる。 だが、遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。


分子人類学による説明

ミトコンドリアDNA(母系)による系統分析

1980年代からのミトコンドリアDNA(母系)の研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推定できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる[10]。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。 以下、ミ
トコンドリアDNAによる人類集団の系統分析を系統樹にしたものを参考に記す。 人

類集団の遺伝的系統

多型マイクロサテライトによる人類の進化系統樹

この系統樹図によれば、最初にアフリカ人とその他の集団が分岐し、次にヨーロッパ人とその他の集団が分岐したこと、その次に東・東南アジア人とオーストラリア人が分岐し、最後の大きな分岐として東・東南アジア人とアメリカ先住民が分岐したということである。この系統樹で見られた主要な特徴は、従来のタンパク質多型や最近の核DNAの多型によって明らかにされた人類集団間の系統関係と大筋において一致する。 人類集団の遺伝的系統-2


近隣結合法による遺伝的近縁図

この図によれば、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイドからオセアニアン(オーストラロイド)・東アジア人(モンゴロイド)が分岐、そして東アジア人からネイティブアメリカ人が分岐した。この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致する。 日本人特有のM7aグループ 日本には世界で(主に)日本人にしか見られないM7aというグループがある[11]。これは台湾付近で発生したと考えられ、琉球諸島・アイヌに多く本州で少ないという特徴的な分布をしている(Mグループについて、M7aは台湾・日本から朝鮮半島中国北東部への北上。M7b,cは南方及び中国沿岸へ)。M7aの最大集積地が(最も頻度の高い地域)は日本列島であり北上の上限がシベリアであったとの見方が主流である。M7a、M7b、M7cについてもシベリア等からの発祥は考えにくく、南方から北方に移動があったとされている。 これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南ア
ジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している[12]。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている[13]。しかし、M7b,M7c等が台湾を中心に拡大していることからもM7は北上ルートでシベリアに達したと考えるのが一般的である。この為近年では崎谷満の説は一般的に受け入れられていない。


塩基多様度のネット値 (DA) 分析による系統関係

ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌと東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで琉球と本州とが分岐する[14]。


Y染色体(父系)による系統分析

母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[15][16][17]。ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す[18]。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない(日本人に関する調査で、O2aの欄が*になっている箇所は、O2に関する調査のみ実施。)。下記テーブル中にあるO2b1(O-47Z)はO2b*(O-SRY465*)から派生した別個のハプログループであり、O2b*に含まれるものではない[19]。 「Y染色体ハプログループの分布 (東アジア)」も参照


C DE NO

C1

C3

D1

D2

D3

N

O1

O2a

O2b1

O2b*

O3


日本(野中、水口) 日本 2 3 0 39 0 1 3 1 25 8 16

日本 (Hammer et al.) 青森県 8 0 0 39 0 8 0 0 21 0 10

静岡県 5 2 0 33 0 2 0 2 26 0 10

徳島県 10 3 0 36 0 7 0 3 23 0 11

沖縄県 4 0 0 56 0 0 0 0 16 0 10

日本 (Tajima et al.) アイヌ 0 13 0 88 0 0 0 * 0 0 0

九州 4 8 0 38 0 0 2 * 14 0 14

日本 (Shinka et al.) 北琉球 4 0 0 62 0 0 0 0 13 0 16

南琉球 0 0 4 0 0 0 67 0

韓国 (Shin et al.) 韓国 0 9 0 4 0 4 4 1 12 17 45

東アジア北部 (Karafet et al.) 朝鮮 11 6 3 0 0 36 38

漢民族(華北) 5 2 0 0 66
回 6 0 0 0 28

チベット 3 16 33 0 0 0 33


東アジア南部・

東南アジア(Karafet et al.) 漢民族(華南) 5 15 30 33

漢民族(台湾) 11 7 0 0 60

台湾 1 69 7

イ 16 9 0 0 33

トゥチャ 18 3 0 0 0 53

ミャオ 4 7 7 11 0 0 71

ヤオ 2 2 3 0 0 52

シェ 2 35 0 0 63

チワン 11 68 0 0 16

タイ 47 6 0

ベトナム 4 3 6 36 14 0 41

マレー 11 3 9 28 0 0 31

ジャワ 23 42

フィリピン 2 10 4 1 0 33

北アジア(Karafet et al.) オロチョン 91 0 0 0 0

エヴェンキ 68 17

満州 27 4 0 0 4 38

ブリヤート 84 28 0 0 2 2

ハルハ(モンゴル) 52 1 1 0 0 0 23

ユカギール 50 25

コリャーク 33 33

チュクチ 25 25

ケット 17

ニヴフ 38


上記の分析から日本人の中には、D2系統とO2b系統が存在することが判明した。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。 この系統は本土日本人・アイヌ・南北琉球に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られないことも判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌに88%見られることから、D系統は縄文人特有のY染色体だとされる。 アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も南北琉球同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする説を提出した[20][21][22]。 現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な
血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人、アンダマン諸島等に存続するだけである。これは、後に両者を隔てる広大な地域にアジア系O系統が広く流入し、島国日本やアンダマン諸島、山岳チベットにのみD系統が残ったためと考えられている。奇しくも大陸で駆逐されたD系統は、日本人として現在まで長く繁栄することになった。 なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統は本土日本人・アイヌ・南北琉球の日本人集団固有であり他地域には希である。また、近年の遺伝子調査により、アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、オホーツク人等の北方民族と混血しており、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった[23]。D2は本土日本人の平均でも、最も数値が高く、またC1も他の国には見られない染色体とされる。 O2系統からは、他に東南アジアやインドの一部に見られるO2a系統と、日本のO2b1、中国東北部・朝鮮に多いO2bにそれぞれ分類される。そもそものO2b
系統は長江周辺が発祥、ベトナム人に多い系統である。 崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民であるC3系統である(2 - 3万年前)。バイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達した。また、一部はさらに南下し、北部九州に達した。崎谷は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。 その後、約1万数千年前に、大陸からD2系統が入ってきた。これが縄文人である。D2は日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県(北琉球の一部と南琉球)56%、本州42 - 56%で、東アジアでは存在しない。近縁のD1、D3がチベットで見られる。D系統は華北で東西に分かれ、東がD2、西がD1、D3になったと考えられる。 D2の分岐は日本列島内で、氷河期の終わりと共に孤立したD系統が独自にD2に変化したと考えられる。 同じ頃、経路は不明であるが、インドに起源を持つC1系統が南九州に入ってきた[要出典]
。貝文土器を用い、縄文人とは異なる文化を南九州に築いた。 O1系統は台湾が起源である。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾と近いにもかかわらず、日本列島ではO1はごく少数に過ぎない。 O2a/O2b系統について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O2b系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し、百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島にそれぞれ達したと崎谷満は主張している[24]。長江文明の稲作を持ち込んだと考えられる[25]。


ゲノムワイドな解析

ヒトゲノムが解析されて[26]以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している[27]。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待される。 遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、@注目するDNA領域長、A遺伝的組み換えの有無、B遺伝様式などが挙げられる。 遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制
限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。 ゲノム解析は中立進化をしている領域の他、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される。 上記詳細は太田(2007)[28]、斉藤(2009)[29]などを参照。 以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。 International HapMap Consortiumの研究[27]では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。 Tian et al.(2008)[30]では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortium[31]によってなされている。 日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)[32]では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスター
に分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった[33]。

しかし、Yamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。最新の成果としては、斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査がある。これは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。 その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった[34]。 また
、この調査により、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。 アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた[35]。
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「薬を飲んだから」と治ったつもりで居ると言う恐さ…

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#ккк #Moskinow #terrorist

麻薬取引への参加によるテロリスト活動の融資 → Financing oftheterrorist activity bytheparticipation in drug traffic

the financing of terrorist activities by participation in the drug trade



「朝鮮ドラッグの紅蓮」 → "Flaming red oftheKorea drug"



私のブログに「ゆり様」から頂いたコメントです。 → It isthecomment that "lily"gave to me in my blog.



「知的症害は明治は酷い扱いだった。 → "Theintellect mark symptom harm was handling that Meiji was terrible".

昭和や平成一桁迄は知恵遅れ後に知的症害、今は発育遅れと精神遅滞精神薄弱と呼び名を変えた。 → Changedagrowth delay and retardation of mental development mental weakness andaname after retardate to Showa and one column of Heisei in intellect mark symptom harm,now.

多くは「ヒロポン中毒」と言われていた頃、覚せい剤が一般に販売していた頃である。 → When it was said,most "are addicted to Philopon",it is about time whenastimulant sold it generally.

「日本人にはヒロポンは体質に合わない。 → "Philopon does not fit constitution toaJapanese".

」と言われていたにも関わらず、妊娠中にヒロポン内服した母体の胎児にダウン症が産まれた。 → Though was said,Down's syndrome was born ofthefetus ofthemother's body which took Philopon duringthepregnancy.

吉屋信子の作品は多くに出て来る知的障害の子等。 → Children ofthemental disabilities thatthework of Nobuko Yoshiya comes out to most.

「安宅家の人々」の中に出る来る小さな養豚場の一人息子は知的症害の話もある。 → As fortheonly son ofaforthcoming small hoggery appearing in "people of the Atakas",there isthestory oftheintellect mark symptom harm.

又、学校の先生も彼奴は幾ら教えても九九、割り算、繰り上がり、繰り下がりの計算が出来無いから知恵遅れ。 → In addition,because even if that fellow teachestheteacher oftheschool no matter how much, themultiplication table,division move up,and reel it,and can calculatetheinferiority,and there is not it;retardate.

特に九九と足し算、引き算。 → Themultiplication table in particular and addition,subtraction.

又、漢字や理科も科学と化学、物理、生物が得意な生徒は先生自らスパルタ物理と生物等の役に立たない科学と化学計算漢字さえ「優れていればものになる」と言った。 → In addition, thestudent that science and chemistry,physics, acreature were good atakanji andthescience said to even science andthechemistry calculation kanji that were useless for teacher oneself Sparta physics andthecreature,"it was toathing if superior".

随分、一方的な話だ。 → It isavery one-sided story.

知的症害は九九、足し算、引き算、科学、化学を教えても覚えが悪い。 → Even iftheintellect mark symptom harm teachesthemultiplication table,addition,subtraction,science,chemistry,memorizing is bad.

子供や生徒支援学校へと転校考える先生はまだ居ると噂で聞きました。」 → When there was stilltheteacher who thought about transfer toachild andastudent support school, heard it byarumor.



分かります。 → Iunderstand it.

「知的障害」と言われている子供等は親が「ヒロポン中毒(覚醒剤やドラッグ中毒)」の可能性が高いと言う事ですね。 → It is thatthechildren said to be "mental disabilities" say thataparent is very likely to be"thePhilopon poisoning"(stimulant and drug poisoning).

今の経口薬より、「覚醒剤中毒患者」も点滴等の脳治療をするべきでしょう。 → "Thespeed addict should do brain treatment such astheintravenous feeding thanthepresent oral medication,too".

水銀が脳に溜まるのは有名です。 → It is famous that mercury collects inthebrain.

他の異物も脳から出すだけで改善はされるでしょう。 → It will be improved only bythebrain producing other alien substances.

当時の梅毒等の治療薬には水銀が多く含まれていたと聞いた事があります。 → Ihave heard that a lot of mercury was included in therapeutic drugs such asthethen syphilis.

ダウン症では無く、親子で水銀中毒の脳症の方々は多いかもしれません。 → There is not it fortheDown's syndrome,and there may be many people ofthebrain fever ofthemercury poisoning in parent and child.

薬品不足の戦中、戦後の頃の話ですから「誤った(誤飲)」はあると思います。 → Ithink that there is "wrong" (drinking by mistake)for wartime ofthelack of medicine because it isastory ofthepostwar time.

感染症の中でも梅毒と猩紅熱等は症状が似ていますが、似て非なるものなので治療方や薬品が違います。 → Scarlet fever resembles syphilis inasymptom inaninfectious disease,but treatment andamedicine are different because they are similar and arethething namedthefault.

「薬を飲んだから」と治ったつもりで居ると言う恐さは今もありますね。 → There is stillthefear to tell to have intended to be cured when "Took medicine",and to be.

猩紅熱は「夏風邪や肺炎」と勘違いされて誤った処方をされたり、症状が改善したからと言って薬を飲む事を止め、「慢性猩紅熱」の方も居るでしょう。 → Scarlet fever is mistaken for "cold in summer and pneumonia",and wrong prescription is done and stops that drink medicine becauseasymptom improved it and will be in of "chronicity scarlet fever".

判断ポイントは「二日酔いに味噌汁」と肝臓疾病や肝炎です。 → Thejudgment point is "miso soup and liver illness and hepatitis forahangover".

治療薬としてコカール等のアルコールを飲んだ時には飲ま無い様にと言われる「解熱、鎮痛剤」を「二日酔いの頭痛」等の改善薬として、誤って服用を続けると肝臓病(肝硬変等)になる危険性は高いですね → It is at increased risk for being foraliver disease(cirrhosis)when continue taking "alleviation of fever, thepain-killer" which is told not to have by as improvement medicine such as"theheadaches ofthehangovers" by mistake whenIdrankthealcohol such as co-curls asatherapeutic drug.



http://ejje.weblio.jp/sentence/c
http://p217.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/01207V0BoA4W2y6C/1v?_jig_=http%3A%2F%2Fejje.weblio.jp%2Fsentence%2Fcontent%2F%25E3%2583%2586%25E3%2583%25AD%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%2588&_jig_keyword_=Google&guid=on&_jig_xargs_=SKeywords%3Djmobv%2520Google
posted by arena8order at 08:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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