2013年10月09日

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ニスカ条約 NISGA'A…Apache uram.Kl.3

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ニスカの世界観

 ここでニスカの人々の生活の規範 ― それは1万年を超える歴史、500世代にわたって伝えられ、守られてきた、宗教・倫理あるいは哲学とも呼べるものですが ― に触れておきましょう。
 「ニスカ ― ナス川の人たち」(NISGA'A ―People of the Nass River )という大部の本があります。 これはニスカ族の人たちによって作られた立派な写真集で、ナス渓谷の風景や生活風俗などが並んでいますが、いろいろな解説や主張もあります。
 私が興味深く読んだのは、部族の長老によるバンクーバーの神学学校セミナーでの講義でした。そこで長老はニスカの道徳律について、次のように述べています。
 「私たちには、最高の神から教えられてきた守るべきガイドラインがあります。他の国々の伝説集のように紙に書かれたものではありませんが、長く言い伝えられてきたもので、私たちは今もそれを崇めて、遵守しています。」
 「まず第一に、レスペクト(respect,尊ぶ、尊重する)ということです。こういう風に考えてください。もしあなたが、レスペクトの意味を本当に理解すれば、あなた自身から発するパワーを持つようになるでしょう。そして、あなたの周りの人もそのパワーを受けて、同じように、あなたをレスペクトするようになるのです。仮に誰かがレスペクトの意味を理解できないとしたら、その人はニスカの社会と法体系といざこざを起こすようになります」
 「次に、教育ということです。私たちの教えでは、誰でもポテンシアル(potential 、潜在能力、可能性)を持っています。ですから私たちには、人を分類して格付けすることはありません。私たちには、知恵が遅れているとか、不適合者とかという言葉はありません。私たちは「学ぶ者」であって、それが創造主からの贈り物なのです。私たちの誰もがトーテム・ポールの彫り師になったり、猟師や漁民になるわけでなく、ほかにいくらでも仕事の分野があります。一つのことを試みて、それがうまくいかなければ、他の仕事をやってみるという試行錯誤の期間を過ごしてから、その人に一番合っている仕事を選べばいいのです。最も大切なことは、私たちすべてが、いかに生き抜いていくかを知ることです」

 このように部族の長老は話を進めていきます。インディアンの暮らしでは、部族の長が支配しているのですが、男性が優位に立っているのではなく、男と女が同じ力を持っているそうです。女性が力を持っているのは、女性のみが子供を産み育てることができて、祖先からの血筋を次の世代につなぐことができるからだと言っています。
 まだまだ話は続くのですが、インディアンの道徳律の最初に、レスペクトが出てくることに私は驚きました。彼らの宗教は自然教で、万物の中にある「スピリット」を崇めています。自分たちの暮らしを支えてくれるすべてのもの、動物や魚、そして山や川までもレスペクトの対象になっています。トーテム・ポールに彫られているものを見ても、そのことがよく分かります。
 私たち日本人とよく似ていると私は思いました。私たちは子供の頃から、朝は太陽を拝み、美しく輝く月を見ては、お供え物をして「レスペクト」しました。大きな山や川には、私たちの及ばない何かの力があると考えています。小さな生命を持つ虫や動物でも、意味もなくその生命を奪うことはないように教えられてきたように思います。広い太平洋を隔てて、3万年も前の人たちと、現代の私たちが、ほぼ同じような考え方をしているわけです。

ニスカ条約

 1998年8月4日,連邦政府とBC州政府、それにニスカ族の代表が20年をかけて折衝してきた交渉が、遂に最終協定として、仮調印されました。「ニスカ条約」と呼ばれるものです。
 数日前からすべてのメディア ―テレビ、ラジオそして新聞でにぎやかに報じられました。私はちょうどこのときはカナダにいたのですが、テレビは幾つも特集番組を放映していました。
 仮調印はニスカ族の町で行われました。お祝いということで伝統の衣装を着て、太鼓を鳴らし、歌と踊りが続きました。日本の新聞にもこのお祭りの写真が出ていました。(朝日:8月6日朝刊)
 この協定案に対して、たちまち賛否両論がにぎやかに起こりました。政治家たちの反応はさまざまで、経済界も情勢の見極めが難しいのか、すぐには論評できないようでした。

 では、「ニスカ条約」はどんな内容だったのでしょうか。
 「条約案」は250頁もあるもので,22章からできています。当然のことながらきわめて細部にわたって定められていますが、主要な問題点は次のようになりましょう。

 総論として、ニスカ族はカナダ憲法の下で先住民として存在し続け、カナダ市民の受ける恩恵と権利を持つことを確認しています。また、今後は「インディアン法」の適用は受けません。

 懸案の土地については、ナス川の下流流域の1,992平方キロ(ほぼ東京都と同じ広さ)の土地をニスカの土地と定めます。この土地所有権は森林と地下の資源を含むものです。これまでニスカ族のテリトリーは24,862平方キロとされていましたから、このうちの約10%がニスカのものとして確定して、残りは国有地、あるいは州有地となります。
 今後はニスカの土地内の鉱物や森林は、ニスカのものですから、その開発についてはニスカ政府の許可を得て行い、ロイヤルティなどはニスカ政府に支払うことになります。
 水の権利については、州に属しますが、ナス渓谷の流水量の1%は、ニスカの民政用、産業用および農業用水として使うことができます。
 ニスカの土地の森林資源は、もちろんニスカのものですが、すでに第三者が政府からライセンスを取得しているものについては、5年間は移行期として、その権利の存続が認められます。 
 漁業権については、ナス川に遡上するサケの捕獲可能量の17%ガ、ニスカに割り当てられます。サケ以外のものについては、自家消費用はかまいませんが、他に販売することはできません。
 野生動物に関しては、狩猟はできますが、ムース(moose, アメリカオオヘラジカ)、マウンテン・ゴート、およびグリズリー(grizzly bear、灰色熊)については、種族保護の見地から数量の規制を受けます。
 ニスカの人々の自治組織として、中央政府(ここでは「ガバァメント、government」という言葉が使われています)と、四つの集落での村落政府を組織します。そして自分たちをコントロールする法律を作ります。この自治政府を認めることが、大きな議論を巻き起こすことになりました。
 資金の提供が行われます。連邦と州政府は1億9千万ドル(カナダドル、1カナダドルは最近では75円〜95円で推移)を15年の分割で支払います。さらに漁業振興の基金として2千150万ドルを拠出、また、必要な機材購入のために1千万ドル、財政援助に1千6百万ドル(5年間に)、職業訓練とそのインフラに3千万ドルです。
 政府側から提供される資金の総額は2億6千5百万ドルに達します。カナダの新聞では、土地の評価などすべてを考えると約5億ドルに達すると言っています。
 これまでインディアンが免除されていた消費税は8年間、所得税などは12年間の経過後に、ニスカに対しては、課税されることになります。
 この「条約」と呼ばれる取り引きをどう思うかは、先住民の歴史をどう評価するか、法律的な問題をいかに考えるか、この金額が妥当なものかどうか、などその人の立場によって異なるでしょう。
 法律上問題になるのは、「第三の政府」ができることです。これまでの連邦政府、州政府と並んで「ニスカ政府」が登場します。しかもそれは自分の領域内での立法権や徴税権を持つわけです。このことに疑問を投げかける政治家や法律家は多く、BC州の野党(自由党、改革党など)は政権の座にある新民主党(NDP, New Democratic Party)の行為は憲法に違反するものとして攻撃し、「条約」は州議会の承認ではなく、批准のための州民投票を要求しています。もし州民投票になれば、マイノリティである先住民が有利になることはないでしょう。
 確かに、第三の政府というと穏やかではありませんが、地方自治体のようなものだというのが与党側の説明です。日本でいえば、日本国があり、県があり、また市や町があるわけですから。
 供与する金額の多寡については、いくら議論しても明快な結論は出ないでしょう。これは当事者たちが同意してまとまった数字ということです。
 州政府が最も力を入れて説明しているのは、この条約が、これまで長く続いた社会的、経済的な不安定・不確定なところをなくして、開発投資を呼び入れて産業を興し、雇用を増やすことにつながる、そのことが結局は州民のためになり、また先住民の自立性を高めることになる、ということです。長い目で見れば、これは必要であり、よいことだというのです。BC州の失業率が10%という現実から見れば、投資を促進して雇用を増やすことは急務となっています。

 確かに、先住民の土地の権利が確定しないために、林業や鉱山業などは地元民との紛争や訴訟を恐れて、撤退するものが多くありました。一方では、木材を運び出すトラック道路を先住民が実力で封鎖するという事件も数多く起こりました。最近でもウランや非鉄金属、天然ガスなどが先住民の土地にたくさん発見されています。
 たとえば、カナダの北部、北極圏近くに巨大なダイアモンド鉱床が発見されてエカティ(Ekati)鉱山として開発中ですが、この一帯はインディアンとイヌイットの伝統的な狩り場になっていて、先住民と交渉をして、ロイアリティを定めたり、先住民の教育や採用の義務づけなどの問題を解決しなければなりません。(Maclean's 1998.1.5号) 
 ニスカ側も、これまで百年も自分たちの権利が侵害されてきたのだから、この程度のものではとても満足とはいえない。しかし、解決を延ばしていても不安定な状態が続くだけで、自分たちの利益にもならないのだ、前に進んで生活を改善することが大切なのだ、と言っています。
 仮調印の日にCBC (the Canadian Broadcasting Corporation, カナダの国営放送で、日本のNHK に当たります)では、調印した代表者たちにニュースキャスターがインタービューをしていました。
 州政府を代表してNDP のクラーク首相が出ていました。
 「あなたは、この条約の内容に満足していますか?」という女性キャスターの質問に答えて、彼はこう言ったのです。
 「20年かけてここまで到達したわけです。もちろん連邦政府も州政府も主張すべきは主張してきました。ニスカの人たちもそうでしょう。あなたは私が満足しているかと聞かれるのですか? 折衝ごとというのは、それぞれが主張し、議論し、譲歩してまとまるものです。私がどの点を不満に思っているかは、ここでは申し上げません。やっと当事者たちの意見がまとまったものを、これからさらに前に向かって進めていくのが、首相としての私の仕事ですから」
 テレビを見ていた私は、その通りだと思って感心しました。政治家として立派な態度でした。

市民の反応と今後の展開

 ニスカ条約についてのカナダ市民の反応はどうでしょうか。何人かの私の友人たちに聞いた限りでは三つに分かれます。
 まず無関心の人たち。先住民は人口比率から見ても約5%ですし、多くは保留地内に住んでいるので、日ごろの接触が少ないので、感心を持たないのは無理もありません。
 次に、依然として先住民に対して反感や軽蔑心を持っている人たち。「年金をもらって、酒を飲んでブラブラしている連中」と見る人たちです。これ以上お金をあげるなんて、とんでもない!」という考えです。
 第三のグループは、「私たちはこれまで先住民を不当に扱ってきた。ここできちんと正道に戻すことはよいことだ」と考える人たちです。どちらかといえば、この意見はインテリ層に多いようです。
 この三つのグループの比率がどうなっているかは、私には分かりません。しかし既に条約が仮調印されて目の前にあり、年内にでも連邦議会と州議会で承認されれば、また同時にニスカの人々の議会で承認されれば、正式に効力を持つことになります。そしてこのニスカ条約が先例となって、BC州だけでなく、カナダ全土の先住民との問題解決のガイドラインになることは間違いありません。
 アメリカのインディアンと比べると、カナダのインディアンは異なった道を歩いてきました。植民地経営には手慣れたイギリス流のやり方が結果的にはよかったとも言えますし、歴史の流れも非道な暴虐を許さなくなったこともあるでしょう。 政府側もニスカ族も、訴訟合戦を繰り返すことによる時間と費用のムダを省いて、また道路封鎖などという実力行使を避けて、折衝と妥協という歩み寄りの道を選んだのは、賢明な選択だったと思います。

 1万年の歴史を持ち、豊かな文化遺産を受け継いできて、白人社会に組み込まれることを拒否してきたニスカ族も、ここで新しい局面を迎えました。ニスカの人たちはこれまでと同じように、長い歴史を引き継いで、試行錯誤をしながら、ゆっくりと前へ進んでいくのではないでしょうか。

         ( 1998年10月 東京にて)

 この文章は『鉱山』誌1998年11月号と12月号に掲載されました。

参考資料
1 NISGA'A Final Agreement 最終案 BC州政府が配布。
2 NISGA'A ―People of the Nass River by Nisga'a Tribal Council
3 ABORIGINAL BC by Cheryl Coull
4 Aboriginal Issues Today by S.B.Smart & M.Coyle
5 NATIVE PEOPLES OF THE NORTHWEST by J.Halliday &     G.Chehak
6 NATIVE SITES in Western Canada by Pat Kramer
7 TOTEM POLES by Pat Kramer
8 資料が語るカナダ   日本カナダ学会編
9 アメリカ・インディアン   P.ジャカン 創元社

なお、BC州政府の先住民問題担当省(Ministry of Aboriginal Affairs)およびニスカ族の委員会が、インターネットで幅広い情報を公開しています。
 州政府:http.//www.aaf.gov.bc.ca/
 ニスカ:http.//www.ntc.bc.ca

                    以上

追記1:
 ニスカ条約は8月4日に仮調印されましたが、その後の経過は 1998年12月3日現在では次のようになっています。
1.ニスカ族  
 11月6日と7日に部族民による投票が行われて、ニスカ条約およびニスカの憲法が共に承認されました。
@ニスカ条約
 賛成  1451票 61% (過半数で成立)
 反対   558   23%
 その他  367 16% (棄権および無効)
有権者数 2376 100%

Aニスカ憲法
 賛成  1480票  73%   (70%で成立)
 反対 525 26%
 無効 12 1%
 合計 2017 100%

2.BC州政府では,11月30日から開催予定の州議会で討論を行い、採決する予定。

3.カナダ連邦政府では、来年の連邦議会で討論を行い採決する予定。

    (1998年12月3日、インターネットによるもの)

 追記2:
 ニスカ条約のその後の進展は、ニスカ族のホームページによると下記の通りです。

1。1999年12月13日 連邦議会の下院を通過。
2.2000年4月13日 連邦議会の上院を通過しThe Royal Assent を得て、正式に発効した。
 この Royal Assent というのは、国王の裁可(カナダでは事実上は総督の署名)によって法案が承認されるという形式を取っています。

     (2001年7月28日、インターネットによるもの)
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ニスカ条約 NISGA'A…Apache uram.Kl.2

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#BC州の先住民たち

 カナダ西部で太平洋に面しているBC州には、どの位の先住民がいるのか見てみましょう。
 カナダでは今世紀の初めから,10年ごとに国勢調査が行われてきました。1991年の調査によるとカナダの先住民は約100万人で、カナダの全人口2,730万人に対して約4%にあたります。この100万人の内訳は、インディアンが78万人、メティス(Metis 、フランス系白人とインディアンとの混血)が21万人、イヌイット(Inuit 、カナダ最北部、アラスカ、グリーンランド、シベリア東部に住む先住民。エスキモーとも呼ばれます)が5万人となっています。
 BC州では、人口330万人のうち先住民は17万人で、約5%になります。うち15万人がインディアンで、あとはメティスです。イヌイットはわずか2千人となっています。カナダの先住民のうち約20%がBC州に住んでいることになりますが、カナダのほかの州に比べると、BC州は先住民の集中度が高いことになります。
 インディアンの中でも、統計上は連邦政府の制定した「インディアン法」(1876年)に基づいて登録をし、連邦インディアン省によって管理され、インディアン保留地に住むもの(これをステイタス・インディアン Status Indian といっています)と、そのような登録をしないもの、保留地に住まないものとに分かれますが、ここではこれ以上は触れません。カナダ全体ではステイタス・インディアンは60万人です。
 注目すべきは年齢構成です。BC州の先住民17万人のうちで、15歳以下の若者・子供が35%を占めていて、非先住民(白人と移民)の19%と比べると、インディアンの若い世代が急速に増加していることが分かります。白人との戦争や伝染病などで人口が激減したインディアンが、時代の流れとともに増加に転じてきたわけです。
 カナダ全体では609の部族があり(これをバンド,Band と呼びます)、BC州には197のバンドがあります。現在、インディアン保留地はBC州には1,650箇所あるのですが、その合計面積は3,437平方キロで、BC州の面積930万平方キロの0.36%になります。保留地の大部分は小さな面積のもので、現在では約四分の一の保留地だけにインディアンが居住しています。
 保留地に住むインディアンの数は次第に減ってきていて、都会に移る人が増えました。仕事を求めて移ったり、職業訓練や進学のためもあります。
 現在では先住民人口のうち四分の一が保留地に住んでいます。逆に、保留地に住む人のうちの四分の一は先住民ではありません。この人たちは先住民から土地を借りている人たちです。

 カナダ政府の管理下にある保留地に住むインディアンは、いくつかの特典が与えられています。部族の議会選挙の投票権、保留地内の不動産と個人の資産に対する連邦や州の税金の免除などで、奨学金も課税対象外です。
 また、個人所得も個人資産ですから、保留地内で稼いだものには所得税はかかりません。細かいことですが、消費税はどうなるかは、その商品をどこで買ったかによります。保留地内で買ったものは非課税ですし、保留地の外で買っても保留地に持ってきて使えば(消費すれば)無税となります。アルコールや自動車なども同じように特例扱いとなっています。

白人との利害の対立

 植民地において白人の入植者が増えれば、当然のことながら土地の所有権・利用権が問題となってきます。カナダの場合には先住民としてのインディアンが土地を占有していて、合法的な土地の所有者でした。前に述べたように,1763年の国王宣言でインディアンの存在と土地所有の権利が確認されており、さらに1867年の英領北アメリカ法においても「インディアン及びインディアン保留地」という一項で、インディアンの権利が再確認されています。
 インディアンから土地を実力で奪い取ることはできたかもしれませんが、それでは入植者も安心して農業やその他の産業を営むことはできないし、世界の歴史の流れもそういった植民地政策を許さなくなっていました。
 カナダ政府は建国後、カナダ全土に広がっているインディアンの各部族と交渉を開始し、白人の入植を増やす努力を続け、また大西洋から太平洋まで広がっているカナダ連邦をまとめる大動脈として、大陸横断鉄道の敷設に必要な土地の入手に着手しました。つまり種々の経済的援助と見返りに、先住民の土地所有権(指定された保留地を除いて)やこれに付帯する諸権利の放棄を求めていきます。
 いくつかの部族との間で条約が結ばれましたが、これらの条約によって、インディアンの所有していた広大な土地が放棄させられ、その代償として、政府は一定の年金を支給したり、国有地内のある範囲での狩猟権を与えたりしました。このやり方は、アメリカで行われた暴力的な略奪に比べれば遙かに紳士的といえますが、インディアンから土地を取り上げることが彼らの生活基盤と文化を奪い、ライフスタイルの変更をもたらしました。
 1876年に「インディアン法」が制定されて、土地問題や部族の自治政府などが定められていきます。1880年代にはヨーロッパから来た人の数が先住民を追い越すようになりました。一つの理由は白人からうつされた伝染病があります。天然痘だけでも三人に一人の先住民が死んだそうですから。先住民たちは数の上でも白人に圧倒されていきました。
 キリスト教の伝道師たち―カトリックもプロテスタントも―次々に入ってきて「教化」を始めました。インディアンが大切にしているトーテム・ポールを「偶像崇拝」だとして取り除こうとしたこともありました。
 先住民の子供たちを親元から離して、寄宿学校に集め、教育がおこなわれました。「野蛮人」を「文明化」するためです。しかし結局は、白人でもなくインディアンでもないという、中間的な人間を創りだすだけでした。
 インディアンの伝統的な行事で有名なものに、ポットラッチ(Potlatch)とパウオウ(Powwow )があります。
 ポットラッチは、本来は西海岸のインディアンに多く見られるようですが、なにか大事な行事を祝うときに、ホスト(招待者)が集まったゲストに贈り物をすることです。たとえば、結婚式やトーテム・ポールを立てるときとか、新しい道や橋ができたときなどです。しかし、これは消費癖を助長するとして、1884年になるとカナダ政府によって違法とされてしまいました。
 今日では、お祭りやイベントのときに、ダンスや競技、ゲームなどを伴ってポットラッチが行われるようです。
 パウオウというのは、狩猟や遠征、部族議会の前などに行われる式典のことで、通常はご馳走を食べ、ダンスや儀式がついています。これも現在では各部族が集まって交流をする大規模なお祭りになっているようです。
 日本の旅行客に人気のあるものに「カウチャン・セーター」(Cowichan Sweater )があります。BC州の太平洋岸の沖合に南北520qに伸びる細長い大きな島、バンクーバー島があり、まるで太平洋の荒波に対する防波堤のようです。
 このバンクーバー島のやや南部に、カウチャン川が流れていて、そのあたり一帯はカウチャンと呼ばれており、サリッシュ・インディアンの一族が古くから住んでいます。カウチャンというのは「太陽によって温められている土地」という意味だそうですが、文字どおり気候温暖で、いまは観光地となり、また、定年退職した人たちが好んで住むようになりました。
 このセーターは、マウンテン・ゴート(Mountain Goat )と呼ばれる山羊の毛を手で紡いだ毛糸で織ったものです。色は白、グレイ、黒、ブラウンといったもので、デザインは鷲、鹿、鯨、それにサンダー・バードが使われています。
 山羊の毛はラノリンという脂が豊富なので、耐水性が強くて、丈夫で長持ちすることから、冬が厳しい地方で愛用され、日本人の新婚旅行客が好んで買い求めるようになりました。しかし、インディアンが作っている本物のカウチャン・セーターは、数も少なく高価なものです。カナダ政府はインディアンたちの自立を促進する立場から、特別のラベルをつけるようにして、限られた店でしか売っていません。
 「きれいなパステル・ブルーに仕上がったものなどは、殆どすべてがまがいもので、日本のマーケットに向けられている」と、カナダの案内書に書いてあるほどですから、注意が必要です。
 社会が進歩して生活の近代化が進むと、インディアンの持つ伝統的な行事も、白人からは「珍しいもの」として観光の対象にされてきます。白人社会の文明に取り囲まれて、インディアンの暮らしも次第に変化せざるをえませんでした。

先住民にとっての土地とは

 これまで百年の間に政府は各部族と交渉して、「インディアン法」に基づいて登録をさせる、ある広さの土地を保留地として、その支配権を与える、年金その他の特典を与える、その見返りとしてこれまでインディアンが支配してきた広大な土地の権利を放棄して政府に引き渡す、部族の議会を作ってある程度の自治権を持つ、といった内容の「条約」を結んできました。
 この結果は、不便な地域内に押し込められて、よい職業にもつけず(教育のレベルが低かったので、近代的な職業に対する訓練が不足していました)、一方では、年金を受け取るので、これまで知らなかった「タバコやアルコール」の味を覚える人も増えました。「いつも酔っぱらって、ブラブラしている連中」という白人サイドからの非難の声も大きくなったわけです。
 大昔から自分たちの祖先が生活してきた土地に、百年前に白人たちが入ってきて、武力を背景に、ここは白人の国、白人の土地だと宣言しても、インディアンにとっては全く納得できないことです。BC州政府がインディアンに州議会の選挙権を与えたのが1949年、連邦政府が連邦議会の選挙権を与えたのが1960年でしたから、インディアンから見れば、自分たちが選挙に参加できないのに、勝手に選ばれた人たちが作った法律に従う義務はないことにもなります。
 まして、北米大陸の東部におけるイギリスの支配権を宣言した1763年のイギリス国王宣言でも、インディアンが先住民であって、土地に対する権利があることを認めているわけですから、土地に関する白人と先住民の利害と考え方が大きく違います。
 現代社会に暮らす私たちは、土地問題とか土地についての権利というと、土地の所有権とか不動産に限定して考えがちですが、先住民にとっては、大昔から自分たちの社会を作り、そこを支配し、土地や川・湖を使用し、そこにある資源(森林、動物、魚類、地下資源などすべて)を利用してきていました。 
 ですから、インディアンにとっての土地問題は、単に土地を占有し保有することだけではありません。そこには部族の古い信仰の対象との結びつき、長い伝統を持つ文化との関連が密接であって、土地の権利というものは金額で評価されるものではなく、本来、他人に売るとか、譲渡するといったものではないのです。そしてまた、土地の権利は部族の自治政府、言語、信仰や文化だけでなく、狩猟、漁労、天然資源の利用を含むものでした。
 このように、同じ言葉を使っても、白人と先住民が持っている理念は全く違うのです。このことが過去百年にわたり双方の主張が食い違い、歩み寄れなかった基本的な理由だと私は思います。

ニスカ族の戦い

 BC州の西北の太平洋岸、バンクーバーから北に約800q、ユーコン準州とアメリカ領アラスカ州と接したところに、ニスカ族の領地があります。ここは全長380qのナス(Nasu)川が東側の山地から太平洋に流れ込んでいて、美しいナス渓谷(Nass Valley)を形成しています。領地の広さは24,862平方キロといいますから、日本でいえば北海道のほぼ三分の一の広さになります。
 ニスカは英語では「NISGA'A」と書きますが、これを日本語で表示するのは難しくて、「ニシュガ」とか「ニスガア」と書く人もいます。私がカナダのテレビやラジオで聞いた感じでは、素直に「ニスカ」というのがよいように思いました。日本語の上手なカナダの友人も、同じ意見でした。
 この広大なニスカ領地は、北緯55度という北にあるので、気候的には厳しいところです。高い山が多く、林業資源が豊富です。かって操業した鉱山もあります。ナス川は5種類のサケが遡上してくることでも有名です。
 250年ほど前に領地内にある「Wilksi Baxhl Mihl 」という火山が大爆発して、大量の溶岩が流れ出ました。いくつかのニスカ族の集落を襲い、2千人の犠牲者を出しました。溶岩の流れは幅5q、長さ11qに及ぶもので、いまは州立公園となって保存されています。
 1880年には政府調査団がこの地域に初めて入りましたが、「手厚い歓迎を受けたけれども、何らなすことなく丁重に送り返された」そうです。
 それ以来、ニスカ族と政府間の協定は何も実を結ぶことなく、今日に至っています。現在ニスカ族の数は約6,000人で、うち2,500人が領地内に住んでいますが、残り3,500人は都会に移って暮らしています。
 1万年の歴史を誇るニスカ族は、自分たちの先祖から受け継いだ歴史と神の教えを守り、白人の政策と文明と妥協することなく生き抜いてきました。「土地問題」を論じるときのニスカの人々の基本的な立場は、「私たちは、ここの土地をカナダ政府から与えられることはない、ここはあなたたち白人が来る1万年も前から、私たちが住んできた私たちの土地なのだ」というものです。
 しかし、ニスカの人々は、ただ頑なに政府との交渉を拒み続けたわけではありません。彼らはインディアン自身の教育や、カナダ市民への広報活動など、ねばり強い努力をしてきました。
 たとえば、既に1881年にバンクーバー島にあるBC州の州都ビクトリアに部族の首長が率いる代表団が、カヌーを漕いで抗議のために出向いています。また、1926年には他の2部族の代表者と共に、ロンドンに行って英国政府に「請願」をしました。しかしこのときは、ロンドン駐在のカナダ政府の役人に、自分たちが「請願」を英国政府に確実に取り次ぐので、カナダに戻るように説得されたそうです。

 インディアンの人口は減少の一途をたどり、1929年にはBC州内の人口は3万人を下回ってしまい、最低を記録しました。ご承知のようにこの年はニューヨーク市場の株式大暴落に始まる世界的な大不況の年でした。ただでさえ厳しいインディアンの人々の生活は、極限まで追いつめられていたのでしょう。
 権利を守るための多くの訴訟が、各地の裁判所で起こされました。しかし訴訟というのは、時間と費用ばかりかかって、結論がいつまでもはっきりしないことが多いのは、私たちも経験していることです。
 こういう長い経過をへて、一方的な説得や法廷での権利義務の争いではなく、双方が現実をふまえて問題解決への具体的な話し合いをしなければ何も解決しないという機運が出てきました。そして1974年には連邦政府とニスカ部族との間で、交渉が開始されました。
 1880年代に政府の調査団が初めてニスカの土地に足を踏み入れてから、ほぼ百年が経っています。この時間をかけて、あくまでも平和的に冷静にものごとを進めるという双方の態度が、やがて実を結ぶことになります。
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ニスカ条約 NISGA'A…Apache uram.Kl.1

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#ニスカ条約 #NISGA'A… #Apache #uram.Kl. #ニスカ #BC #band609 #Nisca #killer #ккк #yl #UNI #oroti #sash. #nasca.


ニスカ条約の仮調印について

http://p219.pctrans.mobile.yahoo-net.jp/fweb/10094b6gSM4IymLW/0?_jig_=http%3A%2F%2Fwww1.odn.ne.jp%2Fkminami%2Fsub12.html&_jig_keyword_=%83A%83p%83b%83%60%20%83E%83%89%83%93%20%83L%83%89%81%5B&_jig_done_=http%3A%2F%2Fsearch.mobile.yahoo.co.jp%2Fp%2Fsearch%2Fpcsite%2Flist%3Fp%3D%2583A%2583p%2583b%2583%2560%2B%2583E%2583%2589%2583%2593%2B%2583L%2583%2589%2581%255B%26b%3D3%26trans%3D1&_jig_source_=srch&guid=on


カナダ先住民の文化と土地を守る100年の戦い


1998年(平成10年)8月4日カナダ連邦政府、ブリティッシュ・コロンビア(以下BC)州政府およびニスカ族(NISGA'A)の代表者の間で、「ニスカ条約」と呼ばれる合意文書の最終案が仮調印されました。
 今後、それぞれの組織の承認(批准、住民投票など)をえて、正式に発効することになります。

 ニスカ族はBC州北西部に住む約6,000人の先住民(インデ
ィアン)で、11,000年の古い歴史を持つ人たちです。

 私たちには信じられないような長い年月を、ニスカ族は先祖の教えを守り、自然とともに生きてきましたが、白人がBC州に現れてから、これまで百年以上も、ニスカ族の文化と土地を守る戦いを続けてきました。
 このニスカ条約は、先住民の自治権を認め、土地についての権利を確定した画期的なもので、今後、BC州の政治と経済、文化、資源開発と環境などのすべての面で、大きな変化と影響をもたらすものとなるでしょう。
 日本の産業界も、先住民問題の今後の進展に留意することが必要と思われます。
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 私たち日本人にとって「インディアン」という言葉とすぐに結びつくものは、やはりアメリカの西部劇映画ではないでしょうか。これまでに上映された 1,700本にも及ぶ西部劇映画のうち、200本がインディアンを主題にしたものだそうです。
 広大な土地と開拓者をテーマに西部開拓の歴史を語るときにインディアンの存在は切っても切れないものでした。そこに登場するのは、荒野で働く勇気ある白人の若者、女性には優しいが暴れ回る無法者たち、インディアンと勇敢に戦う騎兵隊といったものでした。そして開拓者たちに手向かい、邪魔をする残虐な悪者として、インディアンが描かれてきたわけです。
 「幌馬車](1923年・制作。以下同じ)、「壮烈第七騎兵隊」(1940年)、「コマンチ族」(1956年)、「赤い矢](1957年)、「大いなる勇者」(1971年)……と並べると、皆さんもきっとご覧になって、血湧き肉踊る…という思い出をお持ちでしょうか。
 しかし、これら一連の西部劇は、白人は正しくてインディアンは悪いというように、正義と悪、勝者と敗者の位置づけが常にワンパターンで、日本のテレビの時代劇のようなところがありました。
 けれども、人間の生き方についてのもっと深い洞察から、インディアンについても、もっと公平な目で歴史を振り返り、新しい視点から描いたものが出てきています。
 「アパッチ」(1954年)、ジョン・フォード監督の「シャイアン」(1964年)、「夕日に向かって走れ」(1969年)などです。そして最近ではケビン・コスナ−監督の「ダンス・ウイズ・ウルブズ」(1990年)が、多くの人々の感動を呼びました。私もあの映画を見て、インディアンの素朴で温かい人間性に心惹かれた騎兵隊の中尉の心情に、涙したものの一人です。
 インディアンの部族の名前も、アパッチ族とかスー族、コマンチ族などが記憶に残ります。ララミー砦やカスター将軍の名も覚えています。


コロンブスが開いた航路

 北アメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)のインディアンの先祖は、第4氷河期に海面が低下して、現在のベーリング海峡が陸続きになった3万年ほど前に、アジア北部から渡ってきたと考えられています。しかし、考古学者の努力にもかかわらず、インディアンがどのような暮らしをしていたのかは、依然として不明な点が多いようです。
 北アメリカに上陸した最初のヨーロッパ人は、ヴァイキング(,8〜10世紀に北ヨーロッパ海域を略奪して回ったスカンジナビア人)で,10世紀にグリーンランドから来た一団が新大陸の北東部を占拠したそうです。しかし彼らの逗留は長くは続かず、彼らが引き揚げてから5世紀もの間は、ヨーロッパ人とアメリカ大陸の関係は切れたままでした。
 マルコ・ポーロが『東方見聞録』で、日本を黄金に富んだ島『ジパング』として紹介して、ヨーロッパの人の黄金への情熱をかき立てたのは1298年(永仁6年)のことですが、この頃からヨーロッパ各国の人々は、黄金や香辛料が豊かにある東洋への夢を持ちはじめました。
 1492年(明応元年・足利時代)に、クリストファー・コロンブスがインドへの新しい航路を求めて大西洋を西に向かい、やっとのことで未知の島々にたどり着きました。そこは現在のバハマ諸島(フロリダ海岸の東、約100q)だったのですが、コロンブスはここはインドだと思いこみ、そこで出会った皮膚の赤黒い人間を「インディアン」と呼びました。コロンブスはアメリカを「発見」したのではなくて、アメリカに「到達」したわけです。
 コロンブス以降、多くのヨーロッパ人が「新大陸」を目指します。ポルトガル、スペイン、フランスそしてイギリス人たちが、続々と新しい富を求めて大西洋を渡りました。
 ヨーロッパ人は、使い古しの布や毛布、ナイフやちょっとした装飾品などと交換に、インディアンからカワウソ(川獺)やビーバー(海狸)の毛皮はを受け取りました。こういった毛皮は、本国に持ち帰れば珍重されて大きな儲けになりました。その上、北米の沖合にはタラやサケの素晴らしい漁場も開けていました。

イギリスの支配権確立とアメリカ独立戦争

 コロンブスのアメリカ到達時に、どのくらいのインディアンが住んでいたかという推定は、学者によって大きく異なっていますが、フィリップ・ジャカンによると、「従来は北米に約100万人、中南米に約1,500万人とされていたが、最近では、北米に200万から500万、中南米に3,700万から5,400万、最も多い場合には北米に980万から1,800万、中南米に8,000万から1億という推定値があげられている」そうです。 (『アメリカ・インディアン ― 奪われた大地』創元社)

 人口の推定値はかなり幅のあるものですが、いずれにしてもこれだけの数のインディアンが、わずか数百年の間に激減してしまいました。その理由は、一つには征服者となった白人との戦争や虐殺、もう一つは白人が持ち込んだ各種の伝染病 ― 天然痘、ハシカ(麻疹)、コレラなどによるものでした。これらの病菌に対して、インディアンは抵抗力が全くなかったのです。
 17世紀に入るとイギリス人やフランス人たちが続々と新大陸に上陸して、植民地の建設が始まります。イギリス人がヴァージニアに、フランス人がケベック(カナダ)に上陸しました。1620年にはイギリス清教徒の一団102名が、宗教上の迫害を逃れ自由な天地を求めて、メーフラワー号に乗って、プリマス(アメリカ、マサチューセッツ州)に移住してきました。「ピルグリム・ファーザーズ」(Pilgrim Fathers )と呼ばれる人たちです。
 北アメリカで長く争われたイギリスとフランスの植民地支配をめぐる戦いには、インディアンの各部族はいろいろな形で巻き込まれています。しかし結局は白人たちにうまく利用されただけでした。この北アメリカの支配権をめぐる長い争いは、イギリスの勝利に終わり(1763年)、イギリスはカナダとミシシッピ川以東の支配権を確立していきます。
 アメリカでのイギリス植民地が力を蓄えるようになってくると、今度は植民地とイギリス本国の利害が対立するようになっていきます。植民地からできるだけ多くの利益を持ち帰りたい本国政府と、自分たちが命がけで築き上げた植民地の利益を守りたい人たちとの争いでした。ボストン茶会事件などをきっかけに、アメリカ東部13州の人々は、本国政府に対して独立戦争を開始して、ついに1776年7月4日には、アメリカ独立宣言が採択されました。アメリカ合衆国の成立です。
 アメリカの新政府は、インディアンを敵対するものと見なして、武力で土地を奪い、そして時には条約を結んで多少の保護を与えながら、西へ西へと押しやっていきます。インディアンは保留地(Indian Reservation ,リザベーション)と呼ばれる地域内に居住し、各保留地にはアメリカの法律に基づいて設けられた部族政府があって、議会にあたる部族協議会を中心に、部族自治が行われています。しかし、保留地の多くは僻遠の地にあり、産業も発展せず、失業率が異常に高くなっています。なかには観光客の「見せ物」となっているものもあります。

カナダでのイギリス植民地

 カナダでのイギリス植民地の歴史は、アメリカとはかなりの違いがあるようです。
 まず、アメリカにいたイギリス人たちは、本国政府に叛旗をひるがえしたのですが、カナダのイギリス人たちには、そういった動きは見られず、イギリス国王に忠誠を誓っていました。その当時は、イギリスとの戦いに敗れてイギリス国王の支配下に入ったとはいえ、なおフランスに忠誠を誓うかなりの数のフランス人がケベックを中心にいたことも影響していたのかもしれません。(これが現在でもフランス系住民が圧倒的に多いケベック州の、分離独立問題となって残っています)
 イギリスがフランスとの戦いに勝ち、北米大陸での主導権を確立して,1763年には「国王宣言」(ジョージ三世、The Royal Proclamation of Octobetr 7,1763 )を布告して、英領植民地の境界を定めました。

この宣言では、アパラチア山脈(北米東部海岸に沿ってカナダ・ケベック州から米国アラバマ州北部まで続く山脈、延長2,414q)から、ミシシッピ川(米国ミネソタ州北部から南方に流れメキシコ湾に注ぐ川。世界第二の長流で 6,418q)にはさまれた地域をインディアン領地(テリトリー)として、白人の入植を禁止しました。なお、当時はミシシッピ川以西の地域はスペイン領でした。
 この宣言の意義は、単に境界線を定めただけでなく、植民地の運用、先住民政策、そして白人入植者と先住民との関係をまとめた点にあります。
 カナダの先住民にとって、現在でもこの国王宣言が重要な意味を持つのは、先住民たちの基本的な法的位置づけがこれによってなされているからです。
 イギリスの北米大陸進出によって、先住民たちは東海岸部から内陸部の方へと追いやられることになりました。しかし、このことによって先住民の地位が完全に無視されたということではありません。つまり、彼らはイギリス国王の支配下に入るけれども、同時に、彼らの独自性がこの国王宣言によって、はっきりと認められたからです。
 しかし残念ながら、このインディアンの「独自性」は、歴史の流れとともに西へ西へとフロンティアを押し進めていく白人勢力によって、次第に形骸化されていきました。
 「フロンティア」という言葉は、「開拓地と未開発地の境界地方」と日本の英語辞書に出ていますが、「フロンティア」という言葉で当時のアメリカ人が表現したのは、「インディアンの住む野蛮な世界」と「文明化された世界」の境界地帯でした。
 フロンティアは、西部で暴れ回った無法者たちの王国ともなりました。彼らはインディアンの殺戮者であり、同時に狩りをし、また砂金を探し求めた人たちでもあったわけです。

カナダ連邦の成立

 カナダという国は、アメリカ人が自らが打ち立てたアメリカ合衆国とは違って、法律的にも政治的にも特徴あるものになっています。
 アメリカの独立後、北米大陸に残されたイギリスの三つの植民地(カナダ、ノヴァスコシア、ニュー・ブランズウイック)を一つの自治領として統合して、現在の連邦制国家としてのカナダの基礎を築いたのが、1867年(慶応3年・明治時代)にイギリス議会によって制定された「英領北アメリカ法」でした。
 この法律は、1787年のアメリカ合衆国憲法と比較すると、同じ連邦制度を取っているといっても、いくつか異なる点が見られます。
 第一に、合衆国憲法がアメリカ人自らの手によって作られたのに対して、カナダの場合はイギリス議会が制定した法律として成立していることです。これは当時のカナダがイギリスの属領であったことによるのですが、カナダが独立国家になってからも、依然としてこの立法形式が残ったために、いろいろと不都合なことが起こりました。
 次に、連邦と州の間の権限の配分についても、合衆国憲法とは対照的な考え方をとっています。つまり、合衆国憲法では、連邦の権限を憲法上に規定された事項に限定する「州権中心型」を取っているのに対して、カナダの場合は一般的統治権を連邦に与える「連邦権中心型」でした。
 しかし、この「英領北アメリカ法」にも、国有財産や貿易、国防、通貨などと並んで、「インディアンおよびインディアン保留地」については連邦政府の立法権限であることを明記しています。
 そして1982年(昭和57年)になって、やっとカナダの独立は法的にも完全なものになりました。イギリス議会が、カナダ憲法の改廃権をイギリス議会からカナダに完全に移管したわけです。それと同時に、憲法上の人権規定として「権利および自由に関するカナダ憲章」を入れて、基本的人権が憲法上の規定として明記されました。

インディアンという呼び方

 ここで「インディアン」という呼び方について触れておきましょう。私はこれまで「インディアン」という言葉をなるべく使わずに「先住民](natives)という表現を使うようにしていました。「インディアン」は、人種差別的に使われることがあるからです。しかし、ニスカ族について書く場合には、「インディアン」という言葉を使った方が、分かりやすく、より正確になるのではないかと考えはじめました。
 『アメリカ北西部の先住民』(Native Peoples of the Northwest)という本があります。これはインディアン問題に詳しい白人女性と、インディアン部族の連合組織で働いているインディアン女性との共著なのですが、本の最初のところでいろいろな呼び方について説明しています。

 「インディアンと呼ぶことは差し支えないかと、よく聞かれるけれども、あなた方がインディアンのことを、『感受性豊かで強い個性を持ち、独特の魅力ある伝統を受けついでいる人々』と考えるならば、インディアンと呼ぶことは一向にかまいません」
 「けれども、例えば『インディアン対カウボーイ』といったような、型にはまった紋切り型のイメージで使われることは困ります。実際に、多くのインディアンの部族自身が『インディアン』という言葉を使っています。もし『インディアン』がネガティブな意味を持っているとしたら、使わないでしょうから」と彼女たちは言っています。
私もこれを読んで、たしかに同じ言葉が、使う人によって、まったく逆の内容を持つこともありうるけれども、ここではやはり「インディアン」を使うことにしようと思いました。
 なお、「アメリカ・インディアン」は、アメリカ合衆国政府と先住民との間の法律文書で使われる言葉で、「ファースト・ネイション」(First Nation )というのは、カナダでの用語で、自治権を持つ先住民とカナダ政府との関係上で使われるそうです。

 カナダのインディアン

 カナダのインディアンは、1万年以上も前から住んでいたことが確認されていますが、その生活様式は部族によって、また居住する地域によってさまざまでした。
 先住民が初めてヨーロッパ人と接触したおよそ2百年前には、カナダに住んでいたインディアンは50万人から2百万人の間と推定されています。ほとんどの部族は、狩猟と魚や野生の植物を採取して生活していました。
 バッファロー(アメリカ野牛)や各種の鹿、熊などの野生動物は豊富でしたし、マスやサケ、エビ、カニ、貝などの海や湖からの贈り物もありました。特にウーラカン(oolichan)というワカサギの種類の魚は沢山捕れて、海面を埋め尽くすほどであったそうです。この魚は脂肪分が多いので、干したものはロウソク(蝋燭)としても使われました。そこから「ロウソク魚」(candle fish)という別名もあります。
 オンタリオ州の南部に住んだイロコイ族は、農業を生活基盤としていた部族でした。しかし、どの部族も状況によって、狩猟を主としたり、野生植物の採取に頼ったりしたようです。厳しい自然条件の下では、生きるためにはできることはすべて試みることが必要であったわけです。
 珍しいものに「ワイルド・ライス」(wild rice)があります。これは北米の湿地や沼地に自生する、稲に似た植物の実で、日本の英語辞書には「インディアン・ライス」(和名はマコモ)のことで、インディアンが食べたと出ています。現在でも北米ではメイン・ディシュの皿に付け合わせの野菜として出てくることがあります。最近では、輸入物を多く並べている日本のスーパーでも見かけるようになりました。このワイルド・ライスはインディアンにとって大事な食糧源でした。
 BC州のインディアンにとっては、狩猟とサケ・マス、それに貝やエビ・カニなどの漁労が生活の基盤であったようです。
 太平洋岸近くの部族の伝統で有名なのは「トーテム・ポール」(totem pole)で、近頃は日本の公園やテーマ・パークにも、形だけまねをしたポールが立つようになりましたので、ご覧になった方も多いでしょう。
 このトーテムというのは、インディアンの部族や家族が、自分たちの先祖に密接な関係があるものとして崇拝する動物や生物のことで、それを大きな木に彫り込んで美しく彩色した柱がトーテム・ポールと呼ばれます。現在でもインディアンの居留地にはたくさん立てられていますし、一般の博物館や空港、公園にも飾られています。
 同じ部族の中でも、地位の高い人のポールは、一番背が高くて、他の人はそれよりも短くしたこともあったようです。
 トーテムに登場するもののうち、鷲(イーグル)やサケ、ビーバー、熊や狼、レイヴァン(raven ワタリガラス、不吉の兆しともされています)、それに伝説上の動物ですが「サンダーバード」(thunderbird )が有名です。
 鷲は両翼を広げて、人間の目で見えないほど高く舞い上がり、広い空と大地を支配するものとされました。インディアンだけでなく、この鷲の紋章は古くはローマ帝国から、旧ドイツ、ロシア、フランス帝国などの国権の標章として用いられ、後にはアメリカ合衆国の国章となっています。
 サンダーバードについては、面白い話が伝わっています。

 昔むかし、動物たちは人間と同じ食糧を分け合っていました。ところがあるとき、大きなシャチ(killer whale.イルカの種類では最大。貪欲で鯨を襲うこともある)が海の中のサケを全部食べてしまいました。大事なサケを食べられてしまった人間はたちまち飢えに瀕したそうです。インディアンの大首長たちがいくら頼んでも、シャチは人間を馬鹿にして聞き入れません。困り果てた大首長たちは会議を開いて相談しましたが名案はありません。
 しばらくすると、急に強い風が海から吹いてきて、恐ろしい雷鳴がとどろきました。目には見えないが精霊が現れたのです。
 「もし私が、あなたがた人間を助けてあげたら、何を私にしてくれるかね?」と精霊は尋ねました。
 首長たちは「精霊のお力をたたえて、あなたのお姿を残しましょう」と約束しました。
 この約束に満足した精霊は姿を現しました。サンダーバードは巨大な猛禽で、鋭くとがった爪からは火花が飛び、大きな翼からは雷鳴が響きわたります。 
 たちまち大きなシャチを爪でつかみ上げたサンダーバードは、遠くの陸地に運んで上空から投げ落とすと、シャチは固まって大きな山になってしまいました。
 インディアンの彫り師たちは、今に至るまでその約束を守ってサンダーバードを彫り続けています。これが多くのトーテム・ポールの一番上にサンダーバードが飾られている理由だそうです。

大自然と共生したインディアン

 トーテム・ポールを見ても、インディアンが大自然と共存して、大事な食糧源である野生動物や海産物を大事にし、自分たちの力を超えるものをうやまったことがよく分かります。彼らは、自分たちが必要とするもの以上を採ることは決してなかったのです。
 食糧だけではありません。インディアンたちは豊かな大自然に生きて、その森林の恵みも上手に利用しています。BC州でポピュラーなものはシーダーの類(cedar ,西洋すぎ。ヒマラヤ杉属の樹木)ですが、これは非常に有用な木でした。
 樹皮は剥がれやすく、細い繊維にしていろいろなものを編むことができます。床のマットや、魚や動物を捕るわな(罠)、摘んだ野いちごなどを入れるバスケットなどです。さらに乾燥させた小枝を叩いてロープを作ります。また魚を捕る網や吊り橋にも使えます。
各種の台所用具、たとえば皿、ポット、小道具類もシーダーから作られました。雨の日に使うケープも便利なものでした。
 平原部のインディアンにとっては、狩猟が大事な仕事でした。大平原には各種の動物がいたのです。アンテロウプ(エダヅノレイヨウ)、エルク(ヘラジカ)、プレイリー・チクン(ソウゲンライチョウ。ライチョウ科の鳥)、それに各種の水鳥です。しかし、一番の獲物はもちろんバッファロー(アメリカ野牛、バイソンともいいます)でした。バッファローは大きな動物で、ひと頃は見渡す限りバッファローの群がいたと言われたほどでした。テントを設営しては狩りをし、また移動を続ける遊牧民にとってバッファロウはそのすべてが役に立つ獲物でした。
 肉を干して保存して移動に備えたり、また厳しい冬のために貯蔵します。毛の付いている硬い皮は、床に敷くカバー、ベッド、衣類、モカシンと呼ばれる平底のくつを作ります。 軟らかい皮は、ティーピー(teepee)というインディアン独特の円錐形のテントに使いますし、子供の毛布代わりにもなります。ぼうこう(膀胱)は防水の袋に、レバー(肝臓)や脳味噌は皮をなめすのに使われ、胃袋は料理用のポットや袋として用いられました。
 骨は大きさや形によって、ナイフやきり(錐)などに、角はカップやスプーンに、けん(腱)はむち(鞭)やロープ、縫い糸として、歯は装飾用のネックレスとして役に立ちます。ひづめ(蹄)は接着用のにかわ(膠)に、そのふん(糞)は乾燥させて燃料として使いました。平原地帯は樹木が少ないので貴重な燃料でした。
 まさに完全利用で、現在の私たちのリサイクルなどは比較になりません。厳しい環境で生き残るための生活の知恵だったのです。
 19世紀中頃には、バッファローは6千万頭いたと考えられていますが、白人たちがバッファローの値打ちに目を付けて盛んに狩りを始めてからは、急速に減少していきます.1875年だけでも50万頭以上のバッファローの毛皮が、モントリオールの毛皮市場に出荷されたそうです。 
 インディアンは、自分たちの必要以上に野生動物を殺すことは決してなかったのですが、金もうけ目当ての白人たちは容赦なく殺しまくりました。
 話が横にそれますが、インディアンというと馬に乗って自由自在に走り回るというイメージがありますが、あれはやはり西部劇の影響のようです。北アメリカにも野生の馬がいたようですが、先史時代に絶滅してしまいました。
 ふたたび北アメリカに馬が登場するのは,16世紀になってからで、スペイン人の征服者が馬を持ち込み、それが野生化して北米の平原に広がっていきました。
 この馬が用いられるようになって、インディアンの暮らしに大きな変化が起こりました。それまでの足で追いかける狩猟から、馬に乗って獲物を追い込むということもできるようになりました。槍や弓矢にたよった狩猟から、鉄砲の導入がこれに拍車をかけます。狩りの効率が一挙によくなったわけです。
 それとともに、移動が速くなって行動半径が広がることは、これまである程度限られた地域に生活していたものが、他の部族が支配していた土地にも進出するようになります。そうなれば当然のことですが、争いと戦いが始まります。
 このむくいはすぐにやってきました。野生動物の激減は、狩猟に依存していたインディアンにとっては、食糧不足を意味します。平原地帯のインディアンは飢えに苦しみ、急速に数を減らしました。
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